編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

8月に『朝日新聞』が取材に来た。

編集長後記

『週刊金曜日』が1000号までよく生き残っていると思ったのだろう。8月に『朝日新聞』が取材に来た。聞き上手なので、脱線して前職でのバイオレンスな日々を面白おかしく話していたら、「ひと欄にしましょう」と言われた。いったん12日掲載となったが、『朝日』の9・11記者会見の翌朝に当たったため、さすがに飛び、17日に掲載された。

さすが700万部? で、当日は私や営業に沢山の連絡をもらった。ただ読んだ人から「苦労人」と呼ばれることには違和感を抱く。「最初で最後の親孝行だ」と腹を決めて乗り込んだ船は想像以上の泥船だった。ぎりぎりのところで飛び降りて東京まで泳いで来たが、その切羽詰まった日々のほとんどが今では生々しくて、笑える。むしろ今よりも「労働」を実感していたともよく振り返る。

バブル後に倒産した経営者や職を失った人、今も厳しい現場の中で働き、これからも働き続ける人は大勢いる。彼らへの同情は時に失礼に当たる。自身の哲学において、明日、生き抜くことを共に考えたい。 (平井康嗣)

自分に気持ちのいい物語

編集長後記

 9月11日に『朝日新聞』社長らが記者会見を開き、吉田調書報道記事取り消しを発表した。当日、メディア関係者の間では憶測情報が飛び交いかなりの騒ぎだった。事実が間違えば、訂正するしかない。しかも大々的に報じた記事ほど影響力が大きいのだから訂正報道も大きくなるだろう。

 この吉田昌郎所長は原発事故の象徴の一つになっている。だから所長をめぐる報道は感情もまじり過熱している。原発事故は避けられたのか、原発に賛成か反対か、東京電力の責任を追及すべきか、死者を批判するか、吉田所長を英雄と考えるか、民主党政権に否定的か――。私たちは何気なくニュースを見ていても、ジャッジをして自分に気持ちのいい物語をつくっている。

 そもそも「慰安婦」報道も、証言の信憑性が問われ、これは否定された。吉田所長調書も同じく証言であり、公開された有力な証拠の一つにすぎないはずだ。もともと私たちは何を命題に議論をしていたのか。そこを共有し直す必要がすでに生じている段階なのだと思った。 (平井康嗣)

『朝日新聞』バッシングが強まっている

編集長後記

「従軍慰安婦」検証記事以降、『朝日新聞』バッシングが強まっている。池上彰氏のコラム不掲載は火に油を注いだ。池上氏の意見が気にいらないからと掲載を見合わせた『朝日』は言語道断だ。

 とはいえ私は池上氏が『朝日』が謝罪しないことを「潔くない」と断じたコラムに強い違和感をおぼえた。「中立」を自認しているという池上氏の見解を模範解答のように捉える論調にも呆れたが。池上氏のようにいくつもの媒体で影響力を持つ書き手は、媒体に応じて文章を書き分けることが多い。つまり池上氏の文章は読者を含めた『朝日』関係者に向けて書かれ、そのため「慰安婦」問題を考える際に同社の姿勢に焦点を絞ったのだろう。ただ、それが今書かねばならぬことなのか。

 噓がばらまかれ世間の歴史認識は大きく揺らいでいる。今回の問題の本質とは、なぜ過剰な『朝日』批判がなされるか、なぜ今さら「慰安婦」の存在が否定されようとしているかではないか。「潔くない」のは歴史事実を否定する側ではないか。 (平井康嗣)

「戦争」や「軍国主義化」という言葉は、硬直化した議論を招きやすいようだ。

編集長後記

「戦争」や「軍国主義化」という言葉は、硬直化した議論を招きやすいようだ。

「戦争」という概念は国際法史上も曖昧でテクニカルに使い分けられてきた。その反省から実をとる「武力の行使」「武力による威嚇」の原則禁止が国連憲章や日本国憲法でも明記されることになった。一方、例外的に集団安全保障、個別的自衛権、集団的自衛権を行使する場合には武力が合法化される余地を残した。だから国家の武力行使は大抵「平和」のため。戦争反対という批判は暖eに腕押しだ。

 また近年の「軍国主義化」の理解には経済の視点が必要だろう。『経済ジェノサイド』で中山智香子氏は、予言的なフリードマン経済学を紹介した。なぜ小さな政府を志向するのに防衛費は増加するのか。景気後退に入ると国家は支出を減らすが、軍事は最後の最後。むしろ企業は安定した軍事産業へと依存を強め、支出が増える。武力行使そのものではなく、軍事(平和)支出の拡大こそが安倍政権の目的だという仮説も持ち、金の流れを見つめたい。 (平井康嗣)