編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

今週号は日本の「歴史修正主義」を考える特集である。

編集長後記

 今週号は日本の「歴史修正主義」を考える特集である。確かに歴史は修正されていくものだ。新しい史料が発見されれば、史実は上書きされていく。だから歴史の修正自体は否定されるものではない。

 しかし、昨今の歴史修正は自らのイデオロギーや価値観、思い込みに沿ったように歴史を書き換えようとする。これは修正ではなく歪曲、捏造である。海外ではホロコーストはなかったという人々が歴史修正主義者と呼ばれたが、日本のそれは「慰安婦」や南京虐殺を歴史から消そうとする集団であろう。彼らは自国に“不利”な事実を認める人々を「自虐史観」と批判し、自らを「自由主義史観」と名乗ってきた。歴史も規制緩和なのだ。一つの訂正、一回の謝罪を見つけると、鬼の首をとったように全否定する単純な手口だが、それは繰り返され、ばらまかれている。

 「吉田証言」や「吉田調書」の記事を取り消しても、記事のすべてが間違いではないとは考えないのか。知ること、読むことの難しさがあらためて身にしみる。 (平井康嗣)

小渕優子衆院議員が経産相を辞任した。

編集長後記

 小渕優子衆院議員が経産相を辞任した。第二次安倍政権として初。主因は明治座観劇の後援会接待疑惑だ。ずさんなカネの使い方にはまたかとうんざりする。「政治とカネ」で民主党を批判していた自民は身内に甘過ぎるが、同じく辞任した松島みどり法相とともに法に則した対応をとるべきだ。立法者の責任は重い。

 後援会の観劇動員はいかにも古くさいが、NHKの「歌謡コンサート」鑑賞を、複数の政治家の後援会関係者が団体で利用していた件を小誌も報じている。一般受信料支払い者は抽選だが、団体枠があり、これをNHKは公表していない。しかしその枠を小渕氏はじめ自民党の政治家が常習的に利用していたと関係者から聞く。NHK経営委員は、この不公正さの現在をきちんと調べて解消してほしい。

 ただ、いずれも世間にはわかりやすく扱いやすい案件だが、私の関心の中枢からは遠い。今は歴史事実すらも悪意をもってねじ曲げる政治家こそ追及すべきである。事実を曲げるものが法など守るはずもないのだから。 (平井康嗣)

お世話になった人たちの逝去

編集長後記

 ここのところお世話になった人たちがたてつづけに亡くなってしまった。先々週、小誌「経済私考」の執筆者、谷村智康さんが急死された。10年以上前、仙台から上京したおりに編集部に訪問されたことが縁だ。博報堂でも働いていたこともあるが小誌の読者でもあった。マーケティングや広告の裏表を熟知していて、私の稚拙な質問にいつも快く応じてくれていた。

 8月に亡くなったテレビディレクターの岩路さんは、冤罪事件を真摯に取材していた。私の知る限り、取材にもとづき、林眞須美死刑囚が冤罪ではないかと指摘した最初の記者だ。岩路さんにはかつて、取材で行きづまっていた作家の黒木昭雄さんを紹介して相談に乗ってもらったこともあるが、それからまもなく黒木さんは自殺してしまった。

 土井たか子さんは護憲団体「憲法行脚の会」の看板の一人だった。谷村さんも行脚の会を手伝っていたこともあるが「これでは日曜集会だ」と率直なダメだしもしていた。みな前向きな気持ちのよい人たちだった。合掌。(平井康嗣)

「慰安婦」と原発事故の報道を見ていると、共通点がいくつも見つかる

編集長後記

 いまの「慰安婦」と原発事故の報道を見ていると、共通点がいくつも見つかる。

 両者とも理解するには相応の勉強が必要になるということだ。事実関係は当然、医学、地震学、関係史や関連法など。データへの基本的姿勢も必要だ。研究者ですら専門をさらに狭い領域に絞って四苦八苦しているテーマを私たちは相当乱暴に扱っている。

 両者とも、とても大事だが商業的(娯楽的)ではなく、メディアはほぼ無視してきた「暗い」テーマだ。しかし「暗い」ものはたいてい日本の潜在的なリスクであり、この雑誌の短かい歴史を振り返っても、いずれ社会問題として吹き出してきたものばかりだ。

 当事者の声を無視してきた結果、いざ報じるときに、膨大な確認作業という利子がつく。それでも記者は報じるため、断片的で都合のいい現在の事実ばかりを取材する。死人に口なし。いや、むしろ当事者に話を聞かないほうが都合はいいのだ。そうして当事者の声を聞けば一発でわかる「本質」にはなかなかたどりつけない。 (平井康嗣)

雑誌をつくっている人間は世間の評価を気にしなければならない

編集長後記

 雑誌をつくっている人間は世間の評価を気にしなければならない、のだろう。読みたい時機に、読みたい記事を提供すれば、手にとってもらえる。これは当たり前だ。だから何がうけるのか、読者は何を読みたいのかを、雑誌の作り手は売れ行きや評判を気にしながら、考えて企画する。これが商売の理屈だし、社会的な役割でもあるのだろう。

 しかし、私は世間の顔色をうかがったり、自身の評判を気にすることが好きではない。ひねくれたこの性格は昔から変わらない。世間が大事だと思うことと、私が大事だと感じることは違うことも多い。かりに褒められても確かにうれしいが、それは情報の一つ。反対に批判されるとうれしくはないが、真摯に考える機会なのだとも捉える。本質的に自身の仕事の出来は他人の評価や多数決で決まるものではない。自分が一番知っている筋合いのものだ。こんな私はほかの週刊誌ならばお払い箱だろうが、『週刊金曜日』では生きられる。今週の特集はしつこく「慰安婦」問題の本質論だ。 (平井康嗣)