編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

安倍首相が解散の決意を会見で語り、「アベノミクス」という言葉を繰り返す姿は滑稽だった。

編集長後記

 外遊から帰国した安倍首相が解散の決意を会見で語り、「アベノミクス」という言葉を繰り返す姿は毎度ながら滑稽だった。いつも「エビカニクスで踊っちゃおう!」という子どもが歌って踊る体操が頭に浮かぶ。けっしてレーガノミクスやサッチャリズムという企業優遇のサプライサイド政策を連想させてくれないところが、この人の薄さと軽さだ。

 執念を感じる憲法、歴史教育、安保以外の政策で首相は踊らされているとしか思えない。むろん官僚や経済界も、言うことを聞いてくれる、政権が長く続く支持率を持つ政治家であれば誰でもいいからお互い好都合だ。

 今回の選挙では在日外国人や「慰安婦」などを憎悪のはけ口にすることを認めてきた大人たちはクビにしたい。彼らは票を持たぬ、意見の違う者への敵視を拡大させてきてもいる。そもそも政治や政治家が扱う領域は暮らしの領域よりとても狭いのだ。メディアが扱う領域もまた同様だ。私たちも踊らされていないか。「検索」ではなく、自分の頭で考えたい。 (平井康嗣)

政治に問われる「心」

 沖縄県知事選で翁長雄志氏が現職の仲井眞弘多氏に約10万票の差をつけ圧勝した。選挙の争点は米軍普天間飛行場の辺野古への移設の可否。翁長氏は否の立場だった。

 仲井眞氏は昨年末、都内病院を退院後に安倍首相と会談し、地元紙記者らに「ハバ ハッピーニューイヤー」と笑顔で挨拶して東京を去ったという下品な一件を思い出す。

 翁長氏については昨年、佐高信さんが『不敵のジャーナリスト 筑紫哲也の流儀と思想』の出版記念と小誌1000号記念の合同イベントをジュンク堂で開いた際に筑紫さんの本を読み返して、偶然その名をみつけた。本誌06年6月9日号の「自我作古」だ。

〈今の(本土の)政府には「心」がない――と翁長雄志・那覇市長は最近の記者会見で語ったという。(本土)政府は「慇懃無礼」だとも。〉

〈翁長市長は、「今」とちがって「心」があった政治家として小渕恵三、野中広務の名をあげたという。〉

 少なくとも8年以上も前から沖縄では政治に「心」が、問われていた。(平井康嗣)

北星学園大学が、元『朝日新聞』記者の非常勤講師を雇い止めにする方針だ

編集長後記

 北星学園大学が、元『朝日新聞』記者の非常勤講師を雇い止めにする方針だ。理由として嫌がらせに対応する費用や経営上の問題が挙げられている。かつて取材した和光大学の「オウム真理教」関係者の入学拒否事件を思い出した。

 今回の件を「大学の自治」や学問の自由への侵害などと憲法上の視点から議論をされたりもする。裁判で闘い勝つには国が用意した標準やルールで闘う必要があるが、私たちは根っからそれにつきあう必要はない。まずは素直に手ぶらで考えたい。嫌がらせや脅迫を受けたのは所属先と「私」だ。しかし所属先は被害者の私が職を失うことを当然視する。私にとってはきわめて理不尽な話なのである。

 確かに日本特有の少子化の中で生徒数は減少の一途だ。大学経営は理想だけではやっていけない。しかし大学は職業専門学校ではない。時流に惑わされず長期的な視野で哲学を築く場であると私は思っている。自らが当事者となった社会の病について研究者たちが考えることは恰好の機会ではないのか。 (平井康嗣)

鶴見俊輔の「埴谷雄高の政治観」という一文について考えている。

編集長後記

 故・久野収編集委員と同時代を生きた作家・埴谷雄高に関する評論集を読み、鶴見俊輔の「埴谷雄高の政治観」という一文について考えている。

 鶴見によれば、埴谷の政治について「書かれたものの上では、ハッピー・エンドへの期待に身を委ねたことがない」と分析し、「ハッピー・エンドへの期待が、どれほどわれわれにとって根深いものかがうかがわれる」と理解する。これは政治に限らないだろう。

 世界は常に過程にあるが、一抹のハッピー・エンドで調和させることがほぼ大前提だ。ハッピー・エンド資本主義、ハッピー・エンド科学と技術。あらゆる場面でハッピー・エンドをつくるために人は日夜仕事に励む。そうでなければ生きている意味などないらしい。大変だ。しかしその結果、戦争や差別も前向きに求めてしまう。埴谷は、「未来」から現在を見、思想の下の下を掘りおこし、論理ではなく文学でそれを表現しようとした。私もハッピー・エンドにもバッド・エンドにもとらわれず、小誌を通じて考え続けていきたい。 (平井康嗣)