編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

「イスラム国」の日本人人質「殺害」事件の詳細はいまだ不明だ。

編集長後記

「イスラム国」の日本人人質「殺害」事件の詳細はいまだ不明だ。しかしウェブ上の映像が事実とすれば、あのような湯川さんの殺害は到底受け入れられない。人の尊厳に対する侮辱である。世間では「テロは許せない」という言葉が繰り返される。が、「テロ」だけでなく西欧先進国のより大規模な「武力行使による殺人」も許されないことをあらためて確認したい。また「テロ」は殺人そのものというよりも、殺人もともないつつ他者を恐怖に陥れ、行動修正を促す行為であろう。

 とはいえ日本社会の反応を見ていると「イスラム国」に恐怖している雰囲気ではない。日本では自分が住む町にいれば、無縁だという空気だ。しかし現在、国内を見渡しても今週号のアイヌ、在日コリアンへのヘイト、沖縄への構造的な差別など「民族」同士の問題が身近にあり、その中で生きている。そして過去。1937年、本土の暢気さの一方中国では日本軍が兵を進めていた。辺見庸さんの新連載「1★9★3★7」の問いかけを考えたい。
(平井康嗣)

「ピースとハイライト」が紅白で歌われたときには唸った。

編集長後記

 サザンオールスターズの「ピースとハイライト」が紅白で歌われたときには唸った。歌は、詩、曲、歌い手の感情などが駆使されることでメッセージがとても理解されやすい。ところが年が明け、サザンの所属事務所には抗議が行き、サザンはお詫びを出した。

 一方、ライブと違って文章を「読む」ことは難しい。この場合の「読む」とは「わかる」ということだ。小林秀雄が代表作『本居宣長』を書いた理由の一つは、だれも本居を読めていなかったことだ。本居が魂を込めた作品には向き合わず、本居人物研究をしても「わからない」のである。

 しかし己の「わかる」を信じたい不安な人はどうするか。徒党を組むのである。自分の信じたい歴史を押しつける人たちもそうだ。小林は講演で、「なぜ徒党を組むのか」というテーマで次のように語った。自分流に信じることは自分で責任をとること。しかし自分流に信じられない人は匿名のイデオロギーや無責任な集団をつくる。そして集団になると私たちに「悪魔」が現われる、と。 (平井康嗣)

今週号は斎藤環さん責任編集、若者たちの新・宿命論である。

編集長後記

 今週号は斎藤環さん責任編集、若者たちの新・宿命論である。「宿命」と主観的にとらえた途端、あきらめ、思い込み、思考の停止状態になる。人並み以上の努力ができることは努力する才能だからと思い込むことに功と罪がある。私などはヤンキー的(©斎藤環)気合い派も多分にあるらしく、学生ボクシング時代も「1発殴られたら10発殴り返せ。そうすりゃ勝てる」とリングサイドで檄を飛ばした口である。

 しかし最近は、筋の違う主観主義の蔓延を感じる。特集で内藤朝雄さんが現在の市民状態は「奇跡のように生じた」と指摘をしている。ピケティが世界大戦後、資本主義の暴走に抑制が利いていたことこそが資本主義の例外期だと指摘したことと通じる。膨大な死者を生んだ戦争は集団主義や権力偏在も一部リセットし、「希望」をぶらさげた。だからといって戦争を望むことは愚かすぎる。次に起きる戦争(的なもの)は息苦しさを完全な日常へと完熟させるだろう。その兆しは十分滲んでいる。一発逆転も奇跡もない中、何を考える。(平井康嗣)

今年の「戦後70年」については「戦後」の区切りとされる気配も感じる。

編集長後記

 私は「周年」企画は好きではないのだが、今年の「戦後70年」については終戦記念日の首相談話が注目され、「戦後」の区切りとされる気配も感じる。

 いやもしかしたら「気配を感じる」と書くことによって政治家や言論も動いていくのかもしれない。「反日」「国賊」という窮屈な言葉も、メディアの側からすれば火のないところに煙は立たずで、世間の匂いをかぎとってそれらを記事にしている向きはある。しかし世間からすれば、メディアで書かれていることを拠り所にしていると答えるのだろう。端緒はどこかにあるにしても、それが増幅されていく過程になると犯人は不明だ。結局、憂いて書くほど、思うほど、拡大し現実化してしまうジレンマを覚える。

 つまるところ、肯定側も否定側も、解釈したいように解釈し、見たいものを見てしまっている危険性がある。学ぶこと、考えることで人は自由になり、人に優しくなるはずなのに、いまの日本では不自由になり、暴力的になってもいる。誌面を通じて「自由」を取り戻していきたい。 (平井康嗣)