今年の「戦後70年」については「戦後」の区切りとされる気配も感じる。
2015年1月9日7:00AM|カテゴリー:編集長後記|平井 康嗣
編集長後記
私は「周年」企画は好きではないのだが、今年の「戦後70年」については終戦記念日の首相談話が注目され、「戦後」の区切りとされる気配も感じる。
いやもしかしたら「気配を感じる」と書くことによって政治家や言論も動いていくのかもしれない。「反日」「国賊」という窮屈な言葉も、メディアの側からすれば火のないところに煙は立たずで、世間の匂いをかぎとってそれらを記事にしている向きはある。しかし世間からすれば、メディアで書かれていることを拠り所にしていると答えるのだろう。端緒はどこかにあるにしても、それが増幅されていく過程になると犯人は不明だ。結局、憂いて書くほど、思うほど、拡大し現実化してしまうジレンマを覚える。
つまるところ、肯定側も否定側も、解釈したいように解釈し、見たいものを見てしまっている危険性がある。学ぶこと、考えることで人は自由になり、人に優しくなるはずなのに、いまの日本では不自由になり、暴力的になってもいる。誌面を通じて「自由」を取り戻していきたい。 (平井康嗣)