編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

辺見庸著『1★9★3★7』を読む

『週刊金曜日』戦後70年の目玉企画として1月から7月まで連載した辺見庸さんの『1★9★3★7』が本になった。主要な舞台は南京大虐殺の起きた1937年だ。そこで著者の父は、戦後は、「皇軍の戦争」をいかに記憶したのか。読み手に身を切るような自問自答を突きつけてくる。論壇や文壇のタブーにまみれた媒体では書き切れなかっただろう。いやむしろ小説や評論でも、なにものでもないこの文章は読み手を迷わせる。それを7カ月にわたり誌面上に掲載しえたことは、(なにもしていないとはいえ)編集人として妖しい快楽すら覚えた。『1★9★3★7』は告発性もさることながら、辺見さんの思索の痕跡を言語表現の限りを尽くし分析し再現しようと挑戦しているようだ。我々はなにかを考えているときに、一つのことを考え続けているようで、実は時空を超え行きつ戻りつめまぐるしく思索していることだろう。人の眼も目の前のなにかを見ているようで、脳は夢をいままさに見続けている。記憶も人のなかにこそある。

新しい選択肢

 最近、自由と選択について調べて考えている。自由をなぜ息苦しいと感じるのか、なぜ人は自由をみずから放棄して服従するのかという問いを考えざるを得ない場面が日本で増えているからだ。

 安冨歩の『生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却』では、自由とは選択肢が増えることだと指摘していたが、週末に通読したバリー・シュワルツの『なぜ選ぶたびに後悔するのか オプション過剰時代の賢い選択術』でも、それを再確認できる。

 政治の分野において意思決定(選択)の実証データを集めることは非日常らしく、行動経済学や社会心理学の業界のほうがデータや書物は豊富だろう。ショッピングの場面などが典型事例だが、それゆえ意思決定論は矮小化されて議論されがちになっていまいか。

 いま憲法9条改正やTPPによる規制緩和で、新しい選択肢を作り出そうとしている。政治は不満足を根拠に代案を提示してくるが、短期的な快楽を満たすために服を買うような選択は、長期的には後悔を招きうるのだ。

夜ノヤッターマン

 今年初め、「夜ノヤッターマン」というアニメが放映された。かつての正義の味方ヤッターマンが独裁王国を築き、ドロンボー一味がお仕置きをする善悪の立場が逆転した話だ。いやそもそもルパン三世や「ワンピース」のルフィもようは職業的犯罪者なのに人気者である。時代は正義のヒーローを描きながら、悪を高らかに掲げる「偽悪」者も庶民の憧れとして描き続けてきた。
 ナチス政治を念頭にハンナ・アーレントは『思索日記Ⅰ』で次のようにメモをしている。〈目的は主観的で手段は客観的である〉〈すべての道徳(目的)は幻想である〉〈「悪い」目的のための善い「手段」による行為は世界に善いものを加え、「善い」目的のための「悪い」手段による行為は世界に害を与える〉
 口では立派なことを言っていても、行為を見れば人物がわかる。政治家や官僚はきれい事を饒舌に語り庶民に苦労を強いている。同縁の知的エリートほどその「偽善」を手前勝手に解釈して忖度する。みずから惑わされ、騙されていくのである。

政府への信頼はあるか

 今週号はマイナンバー特集だが、ついに財務省と安倍政権はやってしまいましたね。
 1978年から旧大蔵省は納税者番号の導入を目指していたがこのような個人識別番号は元来、自民党議員自身が反対して潰してきた。政治にはカネがかかるから財布の中身をのぞかれたくなかったのだろうか。だからそれを逆バネにクリーンさをアピールしようとしたのか、民主党政権は消費税導入と抱き合わせで共通番号推進に回った。財務官僚に洗脳されたらしい。
 1999年の“住民基本台帳ネットワーク法”成立時には、自由を愛する保守こそが国家管理に反対するのだなどと、河村たかし氏(現名古屋市長)や山田宏元杉並区長や櫻井よしこ氏などが威勢良く反対していたものだが、今や音無しの構えだ。ともかく国家の情報管理に内心で反発している人は多いだろう。
 政府税調のメンバーだった神野直彦さんは2010年1月29日号で、納税者番号には個人の連帯と政府への信頼が必要だと語った。いまの日本は逆行している。

咀嚼しながら理解を積み上げる

 日本テレビのセクシーラグビールール以上に馬鹿馬鹿しい安保法が成立した。あまりの不合理ゆえに法案成立は反対者にあきらめるタイミングを与えることもできなかった。法を受け入れる理由が見つからないのだ。それゆえ安保法と安倍政権に対するプロテストはむしろ勢いを強める過程にある。そのことを自公政権や安保マフィア官僚はなめくさっていないか。

 まったく従うつもりがない人びとがどれほど多いか。今週号の特集は『週刊金曜日』の答えの一つだ。私はどうやらひねくれものなので、納得しないと法であろうと実は従う気が起きない。腑に落ちるまでじくじくと考え続けてしまう。

 そんな学び考える“知の巨人”が、山本義隆さんではないか。小社から『私の1960年代』を発刊したことを契機に氏の著書を幾つか手にとった。理系文系問わず、物理から歴史、哲学まで、50年もの間、よく咀嚼しながら理解を積み上げてきた学問者の姿がただちに立ち上がってきた。及ばずながら私も学び考え続けていきたい。