編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

「公共圏」的な言論空間

 今週号では自民党と歩調をあわせるようにメディア攻撃を強めていく動きを特集した。一方、師走になり、安保法や沖縄、憲法を考えるさまざまな民間団体が自律的に立ち上がってきた。
 哲学者・ハーバーマスの概念である「公共圏」は、身分が違う人間が対等に話し合い共通認識を得ていく理性的な場だと言われる。喫茶店という場での自然発生的な議論が始まりとされるが、それが次第に組織や中間団体へと応用されてもいった。
 そもそも「公」はこのように、国家と私生活との間に存在し境界線が引かれているものだ。暴力とカネにも左右されない。とすれば冒頭前者の動きは「公」が偽装されており、後者の動きは「公」「公衆」「公共圏」的な動きと言えよう。民主党政権も「新しい公共」を進めたが政治主導というボタンのかけ方で失敗した。
『週刊金曜日』も創刊のときからさして自覚せずに「公共圏」的な言論空間を目指してきたようだ。さらに気を引き締めて真当な議論を展開していきたい。

国民をなめていないか

 先週末のある夜、ピンポーンと玄関の呼び鈴が鳴り、だれかきたのかと出ると郵便局の人だった。書留だというので見ると、案の定、個人識別番号の郵送である。マイナンバーだ。見るなり私は「いりませんから」と応えると「えっ」と男性はちょっと驚き「拒否ですか」と聞いてくるので、そうなるんでしょうねと言った。

 区役所に返すからと私は署名と捺印をして、彼は帰っていった。配布は大変な労力とコストである。小誌の調べによれば、行政はマイナンバーで仕事する法的義務があるが、民間個人はそれに協力する責任はない。

 私に番号が振られている事情は、住基ネットワークのときと変わらないのだが、番号は一度も使わなかったし、民間にまで大手をふって強制してくるとは不愉快極まりない。情報技術はドッグイヤーで進化とコストダウンをするから、番号受け取り拒否は愚かな反抗なのかもしれない。しかし違憲行為を続ける政府をとても信頼できないわけで、ぬけぬけと付番をする行政は国民をなめていないか。

歴史修正主義とナルシシズム

 昨年来の『朝日新聞』バッシングの最大の「燃料」である「従軍慰安婦」問題。1年が過ぎ、安倍首相とおともだち連中の歴史修正主義者の主張は崩壊している。

 これは正常値に戻ったに過ぎないが、単細胞な連中は朝日新聞社が公式に謝罪した瞬間を切り取り、勝った勝ったと凱歌をあげて勉強を止めている。そうして次に民間放送に圧力をかけだした。

 この数年、なぜ歴史修正主義が生じるのか自分なりに考えてきた。現状でのベターな答えは集団のナルシシズムだ。エーリッヒ・フロムは『悪について』で次のように言った。

〈傷つけられたナルチシズムは、傷つけたものが潰滅し、自己のナルチシズムに対する侮辱が償われてはじめて治癒できる。個人と国家をとわず、復讐は傷つけられたナルチシズムと、傷つけたものを抹殺して、その傷を「治癒しよう」とする欲求に基づくことが多いのである〉

 報復が連鎖することへの一つの答えだ。加害者が被害者になり、また加害者になる。これを人の当然の歴史として赦していいのか。

“日の丸兵器”

 11月30日に『読売新聞』が「国内企業を救え——。外国製に押され、苦境に立つ国内の防衛関連企業を支援しようと、自衛隊装備の開発や調達などを所管する防衛装備庁が、各社の保有する独自技術や経営状況などの情報を集め、データベース化する方針を固めた」と報じた。記事によると約10年間で100社が撤退、廃業したという。

 これも10月1日には防衛装備庁が発足したことを受けてだが、11月中旬には早々と防衛装備庁はシンポジウムを開いた。その宣伝ポスターは制服を着たアニメ的な絵の女性。このアニメ絵が防衛官庁で日常風景になっていることに日本の内向きさを感じる。

 現在日本は“日の丸兵器”の開発と輸出に力を入れている。戦争は公共事業であると誰かが言っていたが、紛争の脅威を煽ることがその国家支出を促すために不可欠だろう。一方、政権与党である自民党の政治資金団体に防衛産業が献金していることも(三菱重工業は2013年度で3000万円超)しっかり見なければならない。(平井康嗣)