編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

そこに「在るもの」の意味

 親父は2000年6月に飯田橋にあった東京警察病院で死んだ。経営していた金属加工の会社がバブル破綻したあと、ひさびさにいい仕事になると人に会い、銀座で一杯やったあとに倒れた。脳梗塞だった。

 病院が編集部から近かったのは不幸中の幸いで、私が家族を代表する形でなにかと足を運び、人工呼吸器の施術同意書などさまざまなサインもした。親父は集団就職で上京後に高度成長期の波に乗ったたたき上げらしく、ワンマンで家族からは煙たがられ、私も喧嘩をよくした。倒産後はますます迷惑に思った。そんな親父の脳梗塞の進行は早く、3日で生かされているだけの「植物人間」になった。

 だが寝たきりになった親父を見て〈植物を人はわざわざ求め、眺めて喜びを得ている。植物人間って案外いい言葉だ。親父にはこのまま“植物”として生きていてほしい〉と、これまで本当に想像したことのない思いが浮かんだ。その数日後、親父は多臓器不全で他界した。そこに「在るもの」の意味は他人には中々わかり得ない。

直接知と間接知

 8月15日の「終戦記念日」は、編集部近くにある地下鉄九段下駅が人でごったがえす。靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑があり、参拝者が訪れるからだ。私は全戦没者を慰霊追悼する千鳥ヶ淵にお参りすることにしている。ただし沖縄での正式な終戦が9月7日であることを本土の人間は忘れてはいけない。

 さてこの時期になると〈戦争の記憶を語り継ぐ〉という企画が目につく。語り継ぐ意図は、二度と戦争を起こさないため、平時を維持するため、憲法9条2項を護るためというところだろう。しかし経験者の知識を他者が正しく理解することは困難だ。知識の分類方法の一つに経験による知識=「直接知」と記述による知識=「間接知」という分け方があるが、大戦の記憶は私にも間接知だ。

 言葉は曖昧で両者の質の違いは大きい。そのため自衛隊を軍隊にしたい連中は直接知の不在を攻撃し、間接知の修正も図る。しかし反戦が戦後国際社会の圧倒的な直接知だったという歴史は、憲法9条の意義を不動のものにしたのだと考えている。

小池百合子氏

 なんと小池百合子氏が東京都知事になる。無党派票が小池氏にあそこまで流れるとは予想外だった。鳥越俊太郎氏は『週刊文春』により「淫行」だとレッテルを貼られたが、18歳以上の男女に淫行は成立しない。報道ではない「文春文学」のダメージは大きかった。

 護憲派の鳥越氏の正反対が小池氏だ。「借り物の憲法記念日5月3日を祝日から外します」とツイッターに書き込んだ過去のある小池氏は改憲派でも極右に位置する。もちろん小池氏の日本会議とも近い極右イデオロギーが有権者に支持されたわけではなく、知名度や守旧派との対決姿勢など選挙戦術が巧みだった。これから自民党本部、都議会自民党、小池氏の三者はどんなかけひきをするか。

 しかし、この間の選挙であらためて痛感したのはネガティブキャンペーンとの向き合いかただ。自民党のゲスな〝口撃〟を上品に受け流しているだけでは、野党は永遠に野党だ。佐高信氏や小林節氏、そして政権交代前の民主党のような痛烈な〝口撃〟力がリベラル派にも不可欠である。