編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

立憲主義を守るべく

 昨日の本誌創刊24周年記念集会は、盛況のうちに幕を閉じた。

 第1部、9団体による「日中戦争から80年共同キャンペーン」には、「中身が濃い」という感想を会場で耳にした。師走の日曜日、1部、2部を通すと6時間を超える長丁場だった。ご来場いただいたみなさま、ありがとうございました。

 今年最後となる今週号には、櫻井よしこさんが登場してくれた。電話インタビューではあるが、「猪瀬直樹知事(当時)批判」以来だ。本来は先週号の特集で掲載できればよかったが、日程的にそれは叶わなかった。憲法観、国家観など、本誌と正反対の立ち位置にいる櫻井さんが本誌に登場してくださったことには、最大限の敬意を表したい。

 今年は、朝鮮半島危機や中国の脅威に乗じた日米同盟の強化や南西諸島への自衛隊配備などが進み、日本が根底から変えられていく危惧を抱いた。来年は憲法改正の発議、そして国民投票が待っている。立憲主義を守るべく、本誌もみずからの使命を果たしていくつもりだ。

エアーフェスタと戦時体験

「緊急発進は全国平均で1日3回。南西エリアがもっとも頻度が高いです。台風の中でも避けられません」「日本の空を守っているのですね。これからは飛行機の音がうるさいなんて思わないで」

 訳あって沖縄にいる。空自那覇基地で週末に開かれたエアーフェスタに行くと、ステージでこんな会話が。戦闘機の試乗コーナーで若い隊員に質問すると、実に素敵な笑顔で答えてくれた。

 その前日、基地の近隣で開かれた旧小禄村の戦時体験を聴く会で、元琉球新報社記者・平良亀之助さんの話を聞いていた。同村は「飛行場を中心に陣地が密集しているがゆえ」真っ先に空襲を受け、避難を余儀なくされたので、数字上の人的被害は少ない。だが避難先、「友軍」や民間人同士の「もう一つの戦争」で、筆舌に尽くせぬ苦難を舐めたという。

 今も戦時体験を掘り起こすのは執念に近い。二度と戦争を起こさぬためだろう。一方で、戦争をする軍隊をよしとする世論づくりがソフトに進められている。

追悼 印牧真一郎さん

 去年の今頃は、アイスラーの『戦争案内』や歌物語『魔法使いの弟子』をだしものに歌のあつまり“風”の仲間とコンサートを開き、悠々と指揮をしていらしたのに。

 オペラシアターこんにゃく座の制作に長年関わられた印牧真一郎さんが今年の4月に亡くなり、偲ぶ会がこの週末に開かれた。私は「ぶんか欄」担当以来のおつきあいだ。

 印牧さんは〈自分の声〉〈自然な声〉〈率直な声〉そして〈今の声〉を求めてこられた。2007年に東京・星陵会館で“風”の歌を初めて聴いた時は、ショックだった。

 人生のキャリアを積んだ人たちが借り物ではない、それぞれの声で、堂々と〈私の歌〉を歌う。実になまめかしくてゾクゾクとするのだ。それぞれの存在がそれぞれの言葉を持ち、響き合う。その時の力に気圧された。私はそれがとても政治的だと感じた。

 偲ぶ会でマイクを持ったお連れ合いのおしゃべりの楽しく心に染みいることといったら。共にすてきな人生を送られてきたのだろう。ちょっぴり羨ましかった。

戦争への“感度”

 ここまでとは……。自衛隊が米軍とともに国内外でここまで大展開をしていたことにいまさならがら驚く。これまで知らなかった、知ろうとしなかったことが恥ずかしい。

 今年92歳になった父親は敗戦まぎわに徴兵された。“海軍精神注入棒”とやらでお尻を叩かれた経験を子どもの頃聞かされた記憶がある。20歳そこそこの若者にとり、軍隊は特別な場だっただろう。

 仕事仲間に誘って貰って父とほぼ同じ年代の方と山に登ったことがある。夜中に大きな声をあげるかもしれないと事前に言われたけれど、真っ暗闇のなか、その方が大声で軍歌を歌い出したのには驚いた。軍隊で非常に危険な任務につかれていたという。だいぶ前に亡くなられたが。

 父親は最近、自分が行ったのは陸軍だと言い張る。「海軍さんが陸に登っちゃった」と母親は苦笑する。戦争が身体に刻まれた世代は少なくなり、戦争の記憶は薄れるばかり。だが、戦争への“感度”を、私たちが持ち続けることは可能だ。その愚かさを聞いた者として。