「食の安全」を守るのも、結局は社会保障の充実だ
2008年12月5日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
ウソをつくと閻魔様に舌を抜かれるぞ。何度、そうやって叱られたかわからない。それでも、親が背を向けた途端、べえっと舌を出すのが子どもだ。しかしまた、夢の中で恐ろしい形相の閻魔様に追いかけられ、しばらくはウソをつかなくなるのも子どもである。こうして人はだんだんと成長するのだから、閻魔様は偉大だ。
だが、いつのころからか、閻魔様の座を脅かすものが登場した。「小遣い」である。「ウソをつくとお小遣いをあげない」が親の定番になった。「悪さをすると神様に叱られる」は「いい学校にいけなくなる」に変わった。
大人になれば閻魔様も神様も実在しないことを知る。その代わり、ウソをつくと心が痛むのは、「良心」が自分の中にあることだと気づく。だが小遣いが大きな場所を占めるようになっては、「地獄の沙汰も金次第」のほうが、それこそ“金言”になりかねない。新自由主義は案外、こんなところから、じわじわと私たちの精神を蝕んでいるのだろう。
「食」をめぐる事件が絶えない。これも、多くは利益(カネ)のためのウソが根底にある。かつて食品会社を取材する過程で、「自社製品は危なくて食べられない」という証言を聞いたのは一度や二度ではない。ウソを承知の商売。カネの誘惑には勝てないのだろうが、舌を抜かれたらものが食べられなくなるのに。
本誌今週号で特集したが、流通の問題も結局は「カネ至上主義」に行き着く。「悪さをして神様に叱られる」より「まともなことをして利益が上がらない」ことに恐怖感があれば、金儲け以外のことを考えるわけがない。
つまるところ、食の安全は規制強化や法の新設だけでは守れないのだ。極端な拝金主義をいかに解消するのかが問われる。では、なぜカネに拘泥するのか。病的な金の亡者もいるだろう。しかし、カネがなければ食べられないし、医者にもかかれないし、住む場も確保できないのが現実である以上、だれもがカネから逃れることはできない。カネのないことによる死への恐怖が、良心を追いやってしまうのである。
それほど複雑なことではない。社会保障の充実があれば、ほとんどの問題は氷解する。消費者庁もいいが、もっと根本的な解決方法に知恵を絞れと言いたい。政府がまず考えるべきは「市民の生命を守る」ことだ。将来を見据えたまともな論議が国会でなされないのは、議員の舌が抜かれているからか。(北村肇)