編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

新自由主義を超え、マルクスを超えるには、自らの足と意志で進むしかない

 余韻が心に残る映画と頭に残る映画がある。『シリアの花嫁』はいずれにもあてはまった。イスラエルに占領されたゴラン高原の女性が、シリアにいる親戚と結婚する。いかなる事情があれ、境界線を渡れば二度と戻れない。結婚はすなわち家族との永遠の別離でもある。政治に翻弄される一家族の歴史的一日――。

 ラストシーンがじわりじわり心と頭に染みついてくる。境界線に行き、数百メートル先に新郎の姿を認めてから、さまざまな障害により、その日の結婚が無理となる。呆然とする人々を尻目に、彼女は決然として、一人でゴラン高原側のゲートを越え、シリア国境に向け歩いていく。純白のドレスを誰も止められない。

 この姿を見た姉は、きびすを返し、ゴラン高原側へと力強く歩み出す。それは、夫という桎梏を乗り越え、自らの人生を切り開くためだった。

 世界にどのような暴風雨が吹き荒れようとも、家族はお互いを愛し、慈しみ、守りあう。「二女の結婚」がそのことを家族全員に気づかせ和解していく場面は、自然に涙腺をゆるませる。そして一方で、人間としての自由を奪う国家権力、因習、父権主義への怒り、闘争が脳を刺激する。どうやって人は真の自由を手にできるのか――。

 思い出すのもしんどい嵐の一年だった。年が明けて陽の射す可能性も少ない。彼岸のマルクスは苦笑しているだろう。人が「カネ」を発明したときから欲望が善意を押しのけるのは必然だった、何を今さらと。
 
 殺伐とした現代社会をとことん分解して残るのは、拝金主義に支配された魂の群れだ。カネの前にひれ伏し、カネに操られる亡者たち。新自由主義は人間性をひからびさせるのである。
 
 しかも厄介なことに、カネはあらゆる「力」にさらなるパワーを与えてしまう。国権主義から父権主義にいたるまでだ。『シリアの花嫁』が、イスラエルの侵略主義とともに、宗教的因習、男性性社会の批判まで描いているのは、まさにその真理を踏まえているからだろう。
 
 とにかく、国境線の前で嘆いているだけでは何も始まらない。社会が「人間性」を取り戻すためには、私たちが自らの意志と足で障害を乗り越えるしかないのだ。(北村肇)