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医療費の窓口負担をゼロにすることが日本を救う

 おカネがないので、風邪をひいても、よほどひどくない限り医者にはかからなかった。一時、慢性気管支炎のようになったのは、そのせいかもしれない。中学生のときの話だ。数年後、都知事選で美濃部亮吉氏を応援した。「老人医療費無料化」の一点で支持した。平和や公害問題などは正直、二の次だった。

 新聞社に就職し健康保険の恩恵にあずかってからは、医療費について深刻に考えることがなかった。風邪くらいなら、会社の診療所に行けばことたりる。虫歯は、記者クラブのあった警視庁で治療した。病気が恐くなくなった。貧乏暮らししか体験してこなかった人間にとって、「会社員」は天国だった。

 まさにジャーナリスト失格である。安全地帯に身を置くことが人間を堕落させる――自ら人体実験したようなものだ。社会部で厚生省(当時)を担当、医療や福祉行政の実態を見なければ、今も堕落したままだったかもしれない。厚生省の多くの役人の頭にあったのは、「市民の健康を守る」より「どうやって医療費を減らすか」だった。年金局は政治部担当で、直接、取材していないため、責任ある論評はできない。ただ、政治部の同僚の話では、やはり「予算最優先」だったらしい。

 私は、何のとまどいもなく主張する。年金生活者や低所得者、そして子どもの医療費窓口負担はゼロにすべきだ。「空想論」とは言わせない。まず「絶対にやるべきこと」を打ち出し、それから「どうするか」を考えるのが政治や行政の役割。「財政負担からみて無理」と頭から逃げるのは、職務放棄にすぎない。

 市民・国民の安心感を高めることが最善の政策であるのは論をまたない。その筆頭が医療費の問題である。「病気になったら医師にもかかれず、そのまま死んでしまうかもしれない」。そんな不安感を抱いている人はいくらでもいる。私もその一人だった。安心して日々の社会生活を送れなければ、必然的に生産力は落ちる。極端な場合は犯罪に走ることだってある。畢竟、国家にとっては巨大な損失につながるのだ。

 しかも、ことはそこにとどまらない。不安感により、心は荒む。そうなると、やさしさや余裕がなくなり、利他的な発想や行動ができなくなる。こうした市民・国民が増えれば、社会の生命力そのものが減衰するのは避けられない。北欧のように「医療費無料化」を実践している国が、比較的、いろいろな意味で安定しているのは当然である。官僚も政治家も心して、「日本のために何をすべきか」について考えるときだ。(北村肇)