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「砂川事件」の新資料が浮き彫りにした、「日本は米国の属国」という現実

「砂川事件」に関し「米軍駐留は違憲」という伊達判決が出されたのは1959年。小学生の私は米国に憧れていた。かの国のテレビドラマでは、冷蔵庫に果物やジュースが所狭しと入っている場面が年中、出てくる。それだけでうらやましくて仕方ない。二階建ての、部屋がいくつもある家はまさに羨望の的だった。

 いま振り返れば、すべては、反共戦略のため日本を米国の属国とすることを目的とする、日米政府が仕掛けた戦略だった。「米国はすばらしい国だ」「米国の言うことを聞いていれば間違いない。いずれ日本も、ああいう豊かな国になれる」。かくして横文字が氾濫し、ジャズ喫茶やダンスホールがあちこちに生まれ、賑わった。「文化」の利用により、日本は否応なく米国の僕(しもべ)と化していったのである。

 そして、市民の目が届かないところでは、伊達判決破棄を目指す米国側が、露骨な内政干渉をしていた。本誌今週号で詳述したように、日米関係史の研究者、新原昭治氏が米国国立公文書館で驚くべき資料を発見し、明らかになった。

 1957年7月、東京都砂川町(現立川市)の米軍立川基地拡張に反対するデモ隊の一部が基地内に立ち入ったとして逮捕され、刑事特別法違反の罪で7人が起訴された。だが、東京地裁(伊達秋雄裁判長)は59年3月、駐留米軍を憲法9条違反の「戦力の保持」にあたるとして無罪判決を言い渡した。

 これに対し、検察側は高裁を飛び越して最高裁に跳躍上告。最高裁はわずか9ヶ月後の同年12月、一審判決を破棄して差し戻しの決定を下す。一転して、7人は有罪とされたのだ。今回、発見された資料によれば、マッカーサー駐日米国大使が「最高裁に跳躍上告をしろ」という圧力を藤山愛一郎外相にかけていた。

 さらに、同年4月、大使が国務省宛に送った公電では、上告審の裁判長を務めた田中耕太郎・最高裁長官と接触したことが明記されている。そこでは、早く裁判手続きを進める話までされていた。サンフランシスコ講和条約が発効し独立国家になっていた日本への露骨な内政干渉はしかし、政治家らから反発を受けることはなかった。

 翌1960年、日米安保は改定され、現在に至る日本の米国属国化が確定する。こうした一連の流れをみれば、「伊達判決」が葬られた時点で、米国との関係では、日本の司法も立法も「殺された」のである。その後、蘇生はしていない。(北村肇)