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「1968年」から40年目の年に考える「闘争からの逃走」

 うかつにも今年が「1968年」から40年目の年にあたることを忘れていた。同様に「1978年」から30年目であることも意識の外だった。いくら口先で「闘争」と言ったところで、すでに「社会を変えうる想像力」は垢にまみれ、怒りに震える魂も錆び付いている現実を実感し、身をすくませる思いだ。

「パリの五月革命と日本の学生運動の違いは何か」と、若者に聞かれる事がある。70年に大学に入った私は「遅れてきた世代」で、経験に裏打ちされたことを語る資格はない。ただ、当時の風を多少なりとも吸った人間として「日本の運動は結局、政治を動かせなかった」という事実だけは述べることができる。むしろ、闘争に関わった多くの先輩は、その後も政治を虚仮にし、無視し続けた。

 このことは、闘争の中心になった学生が緑の党をつくりあげていった欧州とは大きく異なる。薄汚れた社会に石を投げる全共闘の運動は、確かに美しかった。敗者の血や涙も清々しく感じられた。しかし、社会も人間も、本来、ドロドロしたものだ。汚泥にまみれながら、一票一票もぎとっていく与党議員の力の源泉はそこにある。学生運動のエネルギーは、上滑りしたまま70年代を過ぎていったと感じたのは、私だけではあるまい。

 そもそも、政治闘争は突き詰めれば「選挙闘争」でもある。政権をとらなければ「革命」はありえないのだから、有権者の一票をどうつかみとるかがすべてと言ってもいい。だが、60年代後半、日本中で立ち上がった学生から、そのようなスローガンを聞いたことはない。私自身、「汚い政治に関わることはやめよう」と思いこんだ時期もある。

 一方の1978年。成田空港の管制塔を開港反対派が占拠、4日後に予定されていた開港を阻止した。このときの高揚感は今も、存在の内奥にとどまっている。だが、それだけだった。中には、既成政党に裏切られたとの思いを抱きつつ、地底に潜った若者もいた。

 21世紀に入っても、この国の政治の制度疲労は何ら解消されないまま、米国のいいなりになることだけが与党の存在意義といった体を示している。野党は相変わらず「汚泥にまみれながら、一票一票もぎとっていく」したたかさを持ち得ず、きれいごとのスローガンでお茶をにごす。大学は静まりかえったままだ。

「それもこれも、あの世代が悪い」という30代、40代の怨嗟の声を聞きながら、「闘争から逃走へ」と揶揄された意味を、ぐっと考える08年の夏。(北村肇)