「税金は『金持ち』からとる」という、博愛や友愛の発想が必要だ
2009年2月20日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
「愛」という文字は、どうしてこんなに画数が多く、書くときにまとまりにくいのだろう。語源をみると、「いっぱいの切なさ(心)に、足をひきずる意を足したもの」とある。複雑で、なかなか思うようにいかないからこそ、表す文字も単純とはならなかったのか。確かに、「愛」が二画か三画の文字では味気ない。
単純ではない「愛」はまた、たとえようのない力をもつ。人は例外なく、わがままで自分勝手な面がある。とともに、みんなが等しく公平であることを願う気持ちもある。両者がぶつかりあったとき、仲裁に入るのも「愛」だ。博愛とか、友愛とかが、それにあたる。こうした、凝り固まった自己愛をほぐす「愛」は、誰もがもっている。
だが、それに気づかない人々がいる。「愛」よりカネに価値を置く人、優勝劣敗思想のもと、友愛を蔑ろにする人。皮肉なことに、社会で権力を手にする人ほど、「愛」に縁遠い。「気づかない」と書いたが、違うのかもしれない。知っているのに知らんふり、あるいは、ないものにしてしまう――。
本誌今週号の特集は、大胆なタイトルにした。「税金は『金持ち』からとれ」。この「金持ち」には個人も企業も含まれる。理屈は単純だ。「カネを、あるところからないところに回し、平準化を図れ」ということである。机上の共産主義を唱える気はない。すべてが平等・公平の社会は、それはそれで気味悪い。しかし、「おにぎりが食べたい」と言って死んでいく人がいる一方で、使いもしない莫大なカネを貯め込んでいる人がいるのは、やはり、どこかおかしい。
企業にしても、たとえばトヨタなど、今期は大幅赤字とは言いつつ、まだ天文学的な数字の内部留保があるはずだ。大企業向け優遇税制の恩恵にどっぷりと使ってきたからにほかならない。米国のビッグスリーや大手金融機関は、政府の公的資金援助を得なくてはならない段階にきてまで、経営陣の贅沢三昧が発覚し、批判にさらされた。日本の大企業も、結局は自分たちの栄耀栄華を保つために、人員削減という「弱者へのしわ寄せ」を強行しているにすぎない。
消費税は、金持ちにも貧困者にも同様の負担を強いる。だが、額は同じでも負担の質はあまりに異なる。そのことに思いを寄せるのも「愛」だ。大邸宅に住み、毎晩のようにホテルのバーで打ち合わせをするこの国の為政者には、辞書にも心にも博愛や友愛という言葉はない。自己愛が、高級スーツを着てふんぞり返っている。(北村肇)