「小沢事件は国策捜査」と、民主党は言い続けるべきだ
2009年3月20日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
報道の世界にいると、どんどん性格がひねくれる。陰謀とか謀略とかいう言葉に触れる機会が多く、事件や事象を素直に受け入れることができない。この種の情報はガセが大半だが、時には真実だったり、また謀略説が謀略だったりする。そんな取材体験を積み重ねるうち、斜に構えた姿勢が戻らなくなるのだ。
一例をあげれば、ロッキード事件は「闇」の部分が大きい。5億円の入った弾ボール箱が白昼堂々、都心で車に積み込まれるなど、首をひねることがいくつもある。田中角栄元首相の運転手が埼玉県内で“自殺”した事件は自分で取材した。埼玉県警の捜査員が口ごもりながら話した言葉を鮮明に覚えている。「ドアがロックされていないなど、自殺としては不自然なんだが……」。
事件から30年以上たち、米国のキッシンジャー氏が、中国との国交回復に踏み切った田中元首相を痛烈に批判していた事実が明らかになった。むろん、このことだけで「ロッキード事件は米国の謀略」と決めつけるべきではない。ジャーナリズムがミステリーの世界に足を踏み入れたら最後だ。すべては「事実」に基づかなくてはならない。
とはいえ、小沢一郎氏をめぐる事件は、あまりにも不可解なことだらけだ。そして、これは指摘できるが、検察は国政選挙にもろに影響する事件の捜査は手控えてきた。いつ解散があってもおかしくないこの時期に、野党のトップを狙うことは”常識”的にありえない。このことだけは「事実」である。
政治資金規制法の抜け穴はかねてから問題視されていた。ここに捜査当局がメスを入れたことは素直に評価したい。だが、前述したように、時期が時期である。本誌今週号で触れたように、「容疑となった金額が1億円に達せず、しかも『表金』。過去の例からみて、果たして逮捕するまでの案件か」という疑問も残る。検察には検察の言い分があるだろうが、何らかの「意図」を詮索されても仕方はない。
不安なのは、立法府が検察権力に萎縮することだ。検察が国会議員の「巨悪」を摘発するのは真っ当な責務であり、市民の期待も大きい。だが、仮に勇み足があれば、立法府は検察批判を避けてはならない。鈴木宗男氏や佐藤優氏の事件後、「国策捜査」という言葉が人口に膾炙した。今回、早速引用した民主党は、あっという間にその表現を引っ込めた。同党にはどの程度の気概があるのか。そのことが支持率に影響すると共に、政権担当能力を測る指標になるだろう。(北村肇)