サミットで「秋葉原事件」は語られるのか
2008年6月20日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
雨上がり、木々は特別にかぐわしい香りを放つ。春の花が鼻腔をくすぐるのとは異なり、嗅覚の全体を覆い尽くす感じだ。雨は嫌いだが、この感覚は捨てがたい。とはいえ、都心でまとまった緑を探すのは難しい。温暖化の危機が増す一方で、コンクリートジャングルは増殖の一途なのだから、人間社会の矛盾は甚だしい。
間もなく開かれるサミットでも環境は主要なテーマ。しかし、成果に期待を寄せるほど楽観主義者にはなれない。そもそもサミットは、オイルショックをきっかけに、「先進国」が経済面での連携を模索するためにできたもので、地球環境を守ることが目的ではない。一部国家の利益追求が唯一絶対のテーマなのだ。
冷戦構造が崩れると、頂上(サミット)にあると勘違いする国々は、ますます「弱者(発展途上国)を救う」という大義名分を掲げつつ、あさましくも私利私欲に走った。その結果が、環境破壊であり、格差社会であり、侵略戦争である。
洞爺湖サミットで「秋葉原事件」は取り上げられるだろうか。この事件こそ、G8を中心にした「帝国主義」に走る国々は深刻にとらえるべきである。なぜなら、ここまでの情報を見る限り、犯人は新自由主義の被害者の一人だからだ。むろん、だからといって彼の犯罪が免罪されるわけではない。ただ、世界が、そして日本が、市場万能主義の坩堝にはまることがなければ、事件は発生しなかった。何の罪もない7人が命を失うこともなかったのだ。
それでも、この事件が主要議題はもちろん雑談の中に出る可能性も低いようにみえる。サミットに集う各国首脳が心を痛めることはないだろう。自分たちに遠因があると、ちらりとでも感じる人は皆無だろう。
百歩譲って、海外の首脳は仕方ないとして、ホスト国の責任者である福田康夫首相はどうか。少なくとも、胸をかきむしるくらいの自己嫌悪に陥るのが当然のはずだ。しかし相変わらず、「人ごと仮面」は顔色一つ変えたようにも見えない。
世の権力者はなべて、カネの匂いには敏感だが、木々の香りを慈しむ感性に欠ける。だから、社会から虐げられる人々の声なき声を聞くこともできない。もとをたどれば自らが手にかけたのも同様である、無辜の被害者の無念の涙をすくい取ることもできない。頂上から、地を這う命を見ることはできないのだ。(北村肇)