教育の最大の目標は、学力の向上ではなく、真の「人間力」の向上だ
2009年7月24日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
本誌編集部員の出身校は ほとんど知らない。関心もない。社会人になり35年。その体験から断言できる。学歴は仕事に関係ないし、仕事に熱意や自信のない人ほど学歴にこだわる。「それでも」と反論する人がいる。「学校での勉学は意味がある。どの学校でどんな勉学をしたかの違いは大きい」。一概に否定はしない。でも、その勉学が「知識の詰め込み」を指すなら無意味だ。
授業時間を増やせ、土曜休校はやめろという声が強まっている。学力低下を憂える人も多い。いわゆる「ゆとり教育戦犯論」だ。新自由主義の信奉者ならわかるが、それなりにまっとうな知人にも同様の主張をする人がいる。同じ口から「平等で差別なき社会を目指す」とか言われると鼻白む。「学力低下は避けたい」との発想では、真の「平等な教育」など成り立つわけがないからだ。
なぜ、日本の子どもたちの学力が世界一でなければならないのか。心底、理解できない。学校教育の場に不必要な「競争」を持ち込むことは百害あって一利なしだ。まして、単なる「学力」で世界一を目指すなど、戦前の富国強兵を思わせるようで虫酸が走る。
底辺校という表現にも腹が立つ。「底辺」の意味は、生徒の成績が低いということである。成績が悪ければ校内暴力は多く素行にも問題がある、と思いこむ人もいるだろう。だが、何の証拠もない。いわゆる「頭のいい子」ばかりの学校は、すべてに「いい学校」なのだろうか。こちらも、証拠がない。「公立校の底辺校化」がゆとり教育の弊害にあげられるが、その背景には学力偏重主義が潜んでいるとしか思えない。
愛国心教育の押しつけや教育現場での管理体制強化は論外であり、いちいち批判するにもあたらない。だが、「子どもたちの学力が落ちているのは問題だ」という言説の落とし穴には気づきにくい。「学力」に焦点をあてた時点で、たとえば知的な障がいを持った子は排除されるのである。革新的な主張をする人の中にも、「障害者は健常者とは別の場で教育すべき」という説を唱える人がいる。ゆとり教育の本旨は、成熟社会での共存共助を目指すこと。それが理解されていない。
教育の最大の目標は学力向上ではない。人間力の向上にある。一つの生命体として生き延びるための知恵、すべての生命体を尊重し共存していくための知恵。それが真の人間力である。教室、教科書、校則に縛られた教育が果たして、人間力向上につながるのか。いま、極めて根源的な問いが突きつけられている。私たちにも、むろん政治家にも。(北村肇)