編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

シングルの孤独感を味わっているのは、高齢者より若者なのだろうか

 泥を手ですくったことがあるだろうか。小さいころではない。たとえば昨日とか、一週間前とか。意外に、「最近、泥にさわった記憶がない」という人が多いのではないだろうか。土は地球そのものだ。そこに触れるのは、地球と会話することでもある。泥んこ遊びがなぜ楽しかったか、年老いるとよくわかる。

「相手はだれでもよかった」という事件に接するたび、この人たちはいつ、土に触ったのだろうかと考える。あるいは、樹を抱き耳をつけ、その声を聞いたことはあるのだろうかと考える。推測や予断は避けなくてはならない。だが、地球や自然との会話が少なかったのではないかと、どうしても想像してしまうのだ。

 むろん、もっと重要なことがある。肉親との触れあいだ。少しおなかが痛いくらいだったら、母親に手をあててもらったら治る。実は大したことではないのに、「いじめられた」と泣きながら帰るのも、両親に慰めてもらいたかったからだ。

 肌が触れあうだけで会話が成立するのが、親子であり、夫婦であり、恋人だ。不安なときに手を伸ばせば、そこに愛し愛されている人がいる。これこそが最上の癒しであるのは論をまたないだろう。

 本誌今週号では、シングルアゲインを特集した。上野千鶴子さんの『おひとりさまの老後』がベストセラーになったが、高齢化社会が進めば、一人暮らしのお年寄りが激増する。手を伸ばしてもそこにだれもいない。取材も含め、その寂寥感の深さを何度か聞かされた。

 温かい寝床とハグできる相手がいれば他には何もいらない、とよく言われる。どんなに落ち込もうと不安にさいなまれようと、子どもは親に抱きすくめられればほっとする。高齢者には失われた「特権」だ。少年、少女の事件が起きるたびに「親との関係」が取りざたされるのも、故無しとはしない。

 ただ、個人的体験では、親に拒否されたと感じたとき、野球をする空き地の泥や、かくれんぼをした神社の木々は、いつも以上にやさしかった。この歳になって言葉に置き換えれば、地球に抱かれる感じとでもいおうか。
 
 翻って、ネットの世界には土も樹もない。いまシングルの孤独感を最も味わっているのは、高齢者ではなく、若者なのかもしれない。 (北村肇)