編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

オウム事件の闇を解き明かせない自らの無力さがもどかしい

 報道人としての無力さに打ちひしがれることがある。

 地下鉄サリン事件が発生したとき、新聞社の社会部にいた。連載や大型企画のとりまとめをする立場だった。この年(1995年)の1月には、阪神大震災が起きた。その企画であたふたしているところに発生した前代未聞の事件。いま振り返ると、何も考えない日々だった。頭にあるのは、その日や翌日の紙面をどうつくるかだけ。忙しいというレベルは越えていた。それは「ジャーナリストとしては無力」を意味した。

 発生からしばらく時間がたち、多少、冷静になると、次々に疑問点が浮かび上がった。

「坂本弁護士一家殺人事件はオウムの犯行である可能性が極めて高かったのに、なぜ警察は捜査しなかったのか」「松本サリン事件でもオウムは捜査対象に入っていたのに、なぜ強制捜査が遅れたのか」「村井秀夫幹部はなぜ殺害されたのか」――なぜ、なぜ、なぜ……。

 しかし、オウム事件の深い闇はそこにとどまらない。そもそも、一連の事件を刑事事件としてとらえた愚かさに気付いたのは、何年も後だった。オウム真理教は宗教団体である。教義があり「麻原昇晃」という”神”(グル)が存在する。たとえば、神の言いつけに従った信者にとって、「ポア」は刑法上の殺人ではない。むしろ「衆生を救済する」という意味合いが濃かったはずだ。

 いわゆる「悩める若者」ばかりではなく、それなりの学識をもった人々がオウムに集い、麻原氏に心酔した。そして、ある種の自爆テロに走った。社会に氾濫する邪悪なるものを滅ぼす。その行為は快感ではあっても罪の意識を伴わなかったのではないか。

 こうしたことの本質を解明しない限り、「オウムなるもの」が何かはわからない。断罪もできない。だが、事件から15年たったいまも、私には何らの解答も浮かばない。それどころか、ますます混迷に陥るばかりだ。

 その一方で、淡々と裁判は続き、麻原氏を含め多くの被告に死刑判決がくだされる。いかなる理由があれ、裁判所は刑法、刑事訴訟法に基づき判断をする。民主国家であれば当然だ。しかし、報道に携わる者は、「麻原彰晃」を一人の変質者、殺人者に仕立て上げてしまった「力」とは何かを抉り出さなくてはならない。それができない無力さ、非力さ、もどかしさに襲われる。(北村肇)