農政の原点は、「だれもが生きていける社会の構築」である
2008年8月29日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
どうみてもまだ住めそうな邸宅が取り壊され、更地はロープで囲われた。ほどなくして、周辺の電信柱に「売り地」の看板がついた。1億円を超える土地はしかし、いまだに買い手がつかないようで、名前もわからない草がうっそうと生い茂っている。雑草には、その土地の値段も、都心の一等地であることも関係ない。
大地も川も海も、生命を育み生命を維持する役割を持っている。土あるところには、草が生え、枯れて肥料となり、人は穀物を育て食する。生の営みは古来、本質的には何らの変わりもない。だが、いつしか人間は、この土地を「自然」から奪い、「貨幣」扱いするようになった。雑草からすれば、「何を図々しい」というところだろう。
食糧危機の根源にあるのは、生命や自然をカネで自由にしようという、おぞましい人間の欲望だ。かつての農地は住宅街になり、あるいはゴルフ場と化す。土地代は高騰し、一部の人間には巨額のカネがころがりこむ。だが、一方で、米も野菜も取れなくなり、結果として自給率は低くなる。
しかし、多くの日本人はそのことへの危機感がうすかった。工業立国を目ざす政府が、「輸出でもうかったカネで食糧を買えばいい」という政策をとってきたからだ。消費者が安価な輸入品に飛びついた面も否定できない。
冷静に考えれば、その愚かさははっきりしている。世界の人口は増え続け、開発も底なしの速度で進む。どんなに技術革新により収穫の効率を上げたところで、いずれ食糧は不足する。当然、輸出国も「まずは自国民の食糧確保」となる。いつまでも、安価な食糧が日本に回ってくることはありえないのだ。
だが、政府はしかるべき対策をとってこなかった。ばらまきと言われても仕方のないような、農業への補助金政策がせいぜいで、未来を見越した戦略はかけらもなかった。結果、日本の農業は回復不能なまでに崩壊している。食糧の自給率をあげるべく、着々と手を打ってきた欧州とは比較にならない。
現状では理想論にすぎないが、広大な庭をもつ家はそこを無料で農地に提供し、農家への補償金が足りないのなら軍事費から回せばいい。つまりは、「だれもが生きていける社会の構築」こそが、人間の欲望を調整する政治の役割なのだ。農政の原点は、人間の安全保障である。(北村肇)