市民は社会の主人公であり、国の主人公でもある
2010年7月23日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
人はそんなに強い生き物ではない。だれかにもたれかかり、ようやく息ができる。でも、これは意外に「強い」とも言える。みんながそれぞれもたれあえば、結構、頑丈な構造物になるからだ。このことを知ってか知らずか、「自己責任」を押しつけようとした面々がいる。「人に頼るな。自分で努力しろ、戦え」。
こうした、新自由主義に凝り固まった連中の言葉には裏がある。「人に頼るな」には「国に頼るな」の意味もこめられているのだ。かくして格差社会が作り出され、そこでは、「悪いのは自分だから」という自己批判に追い込まれた人々が、国からも社会からも見捨てられた気分に陥り、漂流を余儀なくされる。
国の主人公が市民であるのは論をまたない。当然、私たちには国に頼る権利がある。だが、悪知恵のきく国は、「だったらお上の命令に従え」とつけ込んでくる。冗談ではない。安心して頼るためには「相手が裏切らない」ことが前提だ。その信頼感がいまの「日本国」にはない。もたれた途端にすっと避けられたのでは、たまったものではない。ただ、矛盾するようではあるが、自分たちの社会は自分たちでつくるという意識も一方で必要だ。国会に丸投げしていたのでは、いつまでたっても暮らしやすい社会は実現しない。
本誌今週号「参議院選挙の連続特集4」は、NGOで活動する人たちから「政権に何を求めるか、自分たちでどう社会を変えていくか」の声を集めた。昨秋に政権交代を実現したのは、有権者の「力」である。参院選で菅直人政権に待ったをかけたのも有権者の「力」。だが、マスメディアは単純に、政党の勝った負けたしか報道しない。
いまの新聞・テレビに決定的に欠けるのは、「市民の視点から」という姿勢だ。マスメディアが「主人公」としているのは、常に国会議員であり官僚であり、一部の知識人と称される人間だ。国家を直接、運営するのが議員、官僚であるのは当然。しかし、社会を動かすのは国家機関だけではない。市民の意志が大きなウエイトを占める。このことへの思いが新聞・テレビには希薄すぎる。
「小さな政府」を信奉する新自由主義者の根底にある発想は「競争」だ。民間企業の競争に任せれば、政府の持ち出しは少なくなり、勝ち組企業から上がってくる税収も増える――。労働者の使い捨てや格差・貧困社会を生み出す負の面はすっかり捨象されている。市民が求めるのは、競争社会ではなく、信頼の社会だ。みんながもたれあえる、しなやかで強い社会こそが「真に豊かな国」につながる。(北村肇)