「強い日本」ではなく「ひ弱でも凛とした日本」がいい
2010年8月27日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
どこでもかしこでも聞こえてくるのが「このままでは日本はだめになりますよ」という嘆き節。そこには「自虐的でひ弱な”我が国”への叱咤」と「新自由主義に毒された”この国”への危機感」という違った意味が込められる。前者は日清・日露戦争時代の明治回帰を主張し、後者は米国からの自立を求める。
「韓国併合」から百年。当時も今も「韓国を西欧列強の手から守り民主化するにはこれしかなかった」という説が根強くある。明治回帰者が夢見る「強くて正しい日本」。だが、これは、米国が日本を抱きかかえて占領したときの論理と基本構造は同じだ。ベトナム戦争やイラク戦争の主要な理屈も「共産圏や独裁者から守るため」だった。
どんなきれいごとを並べようと、他国への侵略目的は権益確保以外の何物でもない。正義の占領や正しい併合など存在しようがないのだ。最近の研究によれば、日露戦争はロシア側が仕掛けたとみられる。日本側は政府も元老・山県有朋も開戦には消極的だったようだ。しかし、朝鮮半島を支配下に置きたいという野望は一貫して変わらなかった。その目的を果たすために「満州利権はロシア、朝鮮利権は日本」という外交に出たにすぎない。日清戦争もまた、朝鮮利権が根底にあった。韓国の強制併合は「明治・日本」にとってまさに長年の夢だったのだ。
だが、「自虐史観」批判を展開する人たちにとっては、植民地政策はまっとうで避けられない政策だったということになるのだろう。だから、日本が米国属国化(植民地化)している現状については反旗を翻さないのかとうがった見方をしたくなる。菅直人首相が韓国併合百年に関する談話を出したことに対し「いつまで謝罪し続けるのか」と怒るなら、なぜ米国に「ヒロシマ・ナガサキを謝れ」と主張しないのか。「我が国」の尊厳を大切に思うなら、大いに矛盾しているのではないか。
この国で生まれ育ったのだから、「日本」を誇りある国にしたいと考えるのは、保守も革新もなく当然だ。だからこそ私は、軍事力で他国に攻め入るくらいなら、ひ弱でも凛とした国のほうがはるかにましと思うのだ。植民地化に走った過去の歴史を深く反省し、被害者に謝罪するのはその一歩である。何かにつけて優勝劣敗思想にこりかたまる米国に、対等の立場で物を申すのが次の一歩だ。
そして、何よりも、憲法9条、25条の具現化こそが、確かな日本再生につながる。(北村肇)