視ていないものを視たつもり、知ったつもりになりたくてメディアに接する。
2011年1月14日9:00AM|カテゴリー:編集長後記|平井 康嗣
編集長後記
視ていないものを視たつもり、知ったつもりになりたくてメディアに接する。その結果、誤解や曲解が生じる。それを避けるためにさらに情報を集めるが不安は残る。
一方、情報に溺れずとも自分の立場が強固だと実相がたやすく浮かび上がる人もいる。たとえば在日コリアン。さして勉強せずとも朝鮮報道のウソを見極める、と感心することがしばしばある。私などは取材し、議論し、勉強しなければ、その域にはなかなかたどりつかない。ただ日本人も、ときにハリウッド映画で描かれる典型的なニッポンジンを観れば、これはおかしいとすぐに声を上げる。以上は認識する力、リテラシーの一つの例。自分に関係がなく関心もない情報はなかなか見抜けないものだ。だがこのような当事者を限定してしまう、狭いアイデンティティ・ポリティクスに囚われてもいけない。世界に線を引いてはもったいないではないか。そうしてぼくは結局、いろんな事象に好奇心を持ってしまう。これからもなんにでも首を突っ込んでいくぞ。 (平井康嗣)