好きな国も嫌いな国もある。問題は、「他国批判」「愛国心」を国家が強制することだ
2008年4月4日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
納豆、味噌汁、漬け物、それに生卵があれば言うことはない。1年中でも構わない。たまにトーストを食べたくなる。だが、3日と続けられない。朝食後、緑茶をすすりながら、日本で生まれた人間なんだなと実感する。ただし、民族や国籍など私にはどうでもいい。あるのは、たまたま白飯と味噌汁の国に育ったという、その実感だけだ。
この世の中で最も許せないのは「差別」だと、心底、思ってきた。叫んでもきた。しかし時折、周囲から「差別主義者」と揶揄される。「関西弁は嫌」「九州はどこに何県があるかわからない」。これらは許容範囲らしい。だが「肉ばかり食べるアングロサクソンが嫌い」と口走ったときは、「そんなことを言うべきでない」とまじめに諭されたりする。
関西の言葉は、きついことを柔らかく包み込んでくれる効果がある。九州は、下町っ子の私には極めて心地よい風土だ。べらんめえの世界が肌にあう。つまるところ、どちらも愛着があるからこそ、ちゃかしてみたくなる。
では、アングロサクソンはどうなのか。もともと、いかにも「肉好き」といったタイプの人とは波長があいにくい。何となく好戦的な雰囲気を感じてしまう。「肉ばかり食べるアングロサクソンが嫌い」という発言には、多少の本音が混じっている。だから知人からたしなめられるのだろう。
このような話しを反米右派の人にすると、「まさに愛国心」と握手を求められる。残念ながら、それは違う。政治的に利用される愛国心は、好悪の情とは無関係なのだ。
米国が好きな人も嫌いな人もいる。中国が好きな人も嫌いな人もいる。当然のことだ。例えば、米国とキューバが野球をすれば、私はキューバを応援する。単純に、キューバのほうが米国より好きだから。といって、米国を応援する人を批判する気はない。
オリンピックで日本選手を応援することが直接、愛国心につながるわけでもない。多くの人は、「日本に生まれ育ったから日本が好き」ということだろう。問題は、特定の国を対象に「日本にとって脅威だ。叩かなくてはならない」と国家の強制が働いたときだ。そこには、他民族の排除と差別につながる、エセ愛国心が生じる。
本誌特集のように、国家主義の権化、安倍前首相が去っても、「愛国心」はウイルスのように浸潤している。しだいに「自由」が抑圧される。気持ち悪い。(北村肇)