「夜間塾」を批判しない一流企業ジャーナリストの生き方成績は「不可」だ
2008年3月7日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
自分の成績はほめられたものではないが、家庭教師には自信があった。ほとんどの教え子を希望校に入れてきた。難しいことではない。ちょっとしたコツさえあれば、高校入試くらい何とかなる。自慢したいわけではない。学問の目的も教えられず、受験技術だけを駆使したことが、今さらながら恥ずかしいのだ。
昔も今も、学校は知識を詰め込む場になっている。学習塾はなおさらだ。親の目的は概ね、成績を上げ、有名校に入り、高級官僚や一流企業を目指すこと。かくして、知識はあるが知恵のない大人が量産されていく。有名大学は出ても、「自分で考え、判断し、決断する」ことのできない人間はごろごろいる。
たまたま二度ほど、大学の非常勤講師を引き受けた。学生時代の反省から「知識を教える講義ではない。『自分で考える』ためのきっかけをつかんでほしい」と強調し、そのような内容にした。ところが、どうも大半の学生はぴんとこないらしい。データ的なことを板書すると、やにわにペンをとりノートし始める。小学校のころから訓練され、反射的にそうなってしまうのだろう。
本誌今週号で取り上げた、東京都杉並区の和田中学が始めた夜間塾。教育の真の意味すらわからない「教育者」が打ち出した、笑止千万のアイディアだ。「学校は知識を与える場」と勘違いしていなければ、こんな下らない施策を思いつくはずがない。「成績の悪い生徒には補習を行ない、優秀な子にはより効果の上がる勉強を」と言うのだろうが、教育とは、「その子の持っているあらゆる能力を、その子が自分で引き出せるように手助けすること」にほかならない。中学校は受験のために存在しているわけではないのだ。
ところが、今回の和田中学の実験に対し、批判的なマスコミは少ない。むしろ、さすがに一般企業から転進した民間校長らしいアイディアと、肯定的に報じる向きが多い。だから当事者は反省しないどころか、胸を張っているのだ。
新聞社もテレビ局も、なかなか入社は難しい。いわゆる一流大学の出身者がほとんどだ。それでも、かつては偏屈な人間が多かった。へそが曲がっているからこそ、曲がっていることが大嫌いだったりする。まして「一流」など糞食らえだった。
それがいまは、すっかり「一流企業」に成り下がったのか。学校の成績は「優」、生き方の成績は「不可」。これではジャーナリストの資格はない。 (北村肇)