中国餃子事件の背景にある、自然に対する畏敬の念の喪失
2008年2月15日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
雪国の方には申し訳ないが、都心でのごくまれな雪は想像力をかきたててくれる。天女が寒さで身震いし、衣の繊維がサラサラと地上に舞い降る。普段は味気ないビル群を覆い尽くしたそれは、汚れきった人間の魂をも清め、ふたたび天上へと戻っていく。運が良ければ、七色に輝く結晶をみられるかもしれない。
だが自然は無条件にやさしいわけではない。人間などとても太刀打ちできない凶暴性を見せ、襲いかかることのほうが多い。立ち竦む私はどうすべきなのか。二面性の一方であるやさしさと包容力を信じ身を任すのか。一目散に逃げるのか。必死に抵抗するのか。これまでは、中途半端に立ち止まっていた気がする。
現実に返ると、都会の雪はあっという間に消え、身の回りには中国餃子事件の情報がぎっしりと積もっている。「殺人餃子」といった表現で反中感情をあおろうともくろむ一部メディアは論外にしても、扇情的な報道が目立つ。私自身、新聞記者時代、幾度も経験したが、真相のはっきりしない状況では「火事場報道」に陥りがちである。どさくさに紛れて、裏の取れないことまで書き散らかしてしまうのだ。
一方、読者は一刻も早く真実を知りたいがために、「まだはっきりしない」といった類の記事に満足できず、断定調のニュースに群がる傾向がある。これがまた「書き散らし」を助長するという悪循環を生んでしまう。
本誌には、さまざまな情報が入ってくる。かなり蓋然性の高いものもある。だが、当然ながら、一定の裏付けがとれないことを書くわけにはいかない。今週号では、「事実」と「謎」を整理してみた。情報が輻輳しているときは、まずそのことを区分けするのが重要である。
中国では、危険性が明らかな農薬が、長い間、使われてきた。都市開発の一方で、十数億の国民が生存するための食料を確保するには、やむをえない選択だったともいわれる。
「食」をめぐる事件が起きるたびに、こんなことを考える。食べ物は本来、自然からの贈り物。しかし、土や水を失いつつある今、自然の摂理を超える力を使わない限り、人類は飢えにさらされる時代になった――。
農薬に頼った農業も、仮に人為的な混入とすればその「悪意」も、自然への畏敬を失った結果とは言えないだろうか。(北村肇)