編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

裁判員制度は問題ありすぎ。もう一度、じっくり検討してはどうか

 愚かでない人間は存在しない。しかし、愚かであることを自覚し、日々、自戒する人間は存在する。こうした先達が、社会に数々の「知恵」を持ち込んでくれた。裁判制度もその一つである。

 人は殴られたら殴り返す。親しい人を傷つけられたら仕返しする。愚かとは思いつつ、「情」に流れた復讐に手を染めるものだ。私自身、たとえば身内が何者かによって殺害され、その容疑者が逮捕されれば、どんなに理性的にふるまおうとしても、怒りが復讐心に結びつくのは抑えようがないだろう。

 だが、仇討ちは新たな不幸を生む。多くの人が情緒的には妥当な行為と認めたとしても、自らの手で人を危めた人間は、その業を抱えたまま人生を送らなくてはならない。胸のすく思いがするのは”ドラマ”を見ている観客だけである。さらに冤罪がからむことがあれば、被害者は一転して加害者へと立場が変わる。

 証拠のみで裁く。証拠がなければ無罪推定にのっとり罪を問わない。一見すると、非人間的で血の通わない仕組みのようにみえる。だが、これこそ、愚かさを自覚した人間が絞り出した「知恵」。社会の秩序を維持するためには欠かせない制度である。

 なのに、来年実施予定の裁判員制度は、法廷に情緒を持ち込む危険性を冒そうとしている。そもそも、市民に裁判官と同様の「冷静さ」を求めても、それは無理である。世間を騒がすような刑事事件の場合、裁判官はワイドショーや週刊誌は見ないという。感情に流されたいためには当然だ。だが私たち市民は、裁判官を職業としているわけではない。テレビ画面で流された被害者の涙が、判決に影響することから逃れるのは難しい。

 それでなくても、ここ数年、裁判所が“お白州”になりつつあることを危惧している。事実、量刑は上がる傾向にある。死刑のハードルもかなり低くなっている。事件によっては、まるで魔女狩りのような風情で、空恐ろしさを禁じ得ない。

 本誌今週号で特集したように、このほかにも裁判員制度には問題点が多々ある。だが、市民・国民にも内容がよく伝わらないまま、来年度には実施に移される。例によってのなし崩し的展開だ。
 
 大岡越前は架空の人物と心したうえで、実施は延期し、再検討すべきだ。(北村肇)