「私はシャルリ」「私はケンジ」などのカードを掲げている人たちの姿をここのところ目にした
2015年2月6日7:00AM|カテゴリー:編集長後記|平井 康嗣
編集長後記
「私はシャルリ」「私はケンジ」(原文は仏語、英語)などのカードを掲げている人たちの姿をここのところ目にした。真意はそれぞれあるだろうが、被害者側に同化し、被害者に寄りそうということなのだろうか。本当にわかりえているならばすごいことだ。
2年前の2013年2月22日号は廣瀬純責任編集「希望にすがるな 絶望せよ」だった。特集では『チッソは私であった』という著作のある水俣の漁師・緒方正人と廣瀬が対談した。緒方は〈運動をやってきて、加害性と被害性が二項対立ではなく、だれもが両方持ち合わさざるを得ない。長い間問う側にいたのが、自らが問われていることに気がついた。自分の中で「どんでん返し」が起きたんですね。しかも、どんでん返しが起きると、チッソの人たちが非常に愛おしくなるんですよ〉と話す。さらに〈本当は「私は」という言葉も使いたくなくて、「一人」という言葉の方が好きです〉とも語った。あらためて私は本当に「私」が何かとわかっているのかと考える。
(平井康嗣)