「命」が無視され、粗末にされた07年。来年は「命」の復権を
2007年12月21日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
アスファルトの上に落ちた枯れ葉を見ると、神経がざわざわする。人間に車に踏みしだかれ、魂までこなごなになり消滅する。「一粒の麦」ではない、たった一枚の枯れ葉でも、土に還れば新たな生命へとつながるのに、コンクリートやアスファルトはそれを拒否するのだ。だれがこんな世界を良しとしてきたのか。
07年、最も頭や心をよぎった言葉は「命」だった。軽視されているという表現ではもう足りない。「カネ」とか「効率」とか「国」とかが、「命」を無視する。植物の「命」も、動物の「命」も、人間の「命」も、何か画に描かれた、実感の無いもののように扱われる。その実態がすっかり露呈した一年だった。
どうしても頭から離れないのが、北九州市の「餓死事件」だ。ミイラ状態で亡くなった人も、「おにぎりが食いたい」と書き残して逝った人も、行政に殺されたとしか表現のしようがない。何のために生活保護制度があるのか――厚生労働省の官僚は、こんな基本的な問いかけにも答えられないだろう。
上から言われるままに、極力、生活保護費を減らそうと“努力”した現場の役人の頭にあったのは、「出世」でしかないように思える。出世の先に何があるのか。地位や名誉やカネか。もしそうなら、自らの欲望が人命を奪った現実を、いかに自分の中で解釈するのだろう。どうやって、これからまっとうな「人間」として生きていくのだろう。
空恐ろしいのは、関係者がだれ一人厳しい処分を受けることもなく、あまつさえ、厚労省が厚顔にも生活保護費の切り下げ政策を打ち出したことだ。さらには、マスコミがなぜか、この問題を徹底的に追及する姿勢を見せないことだ。
新聞、テレビは、まるで血の通っていない「テロで何人が死亡」という記事を日々、流しながら、日本もまた無辜の「命」を奪うことにもなりかねない、米国追従のイラク政策にノーを突きつけることもしない。結果的には、安倍晋三氏が首相を投げ出したことにより遠のいたが、憲法九条を守り抜くというキャンペーンすらなかった。
ただ私は、悲観や絶望をしているわけではない。病理がはっきりすれば、治療に向けての道が開かれる。そう、いま目指すべきは「命」の復権であることが明確になった。あとはその実現のため、一人ひとりが具体的に考え、行動すればいいのだ。まずは身の回りの、そして自分の「命」を大切にしたい。 (北村肇)