森達也さんと中村文則さんの対談では絶望が足りないとの呟きがある
2015年3月20日7:00AM|カテゴリー:編集長後記|平井 康嗣
編集長後記
今週号の森達也さんと中村文則さんの対談では絶望が足りないとの呟きがある。小誌でも廣瀬純さん、辺見庸さん、佐高信さんと「絶望」が言及される機会が増えている。
なぜだろう。「絶望」が足りないからだろう。絶望が足りないとはなにか。「希望」という嘘を嘘だと考えない不誠実のことである。嘘と知りつつ乗っかり、まあいいかと棚上げするのが人だ、そんな無根拠な格言もあろう。人は弱い。超人ではない。王様は裸とは言えず、天国も地獄も虚構だと思わない。国家や秩序、運動や組織を乱す考えを抱いても表明するのが怖い。ただ当たり前のことを誠実に言う行為で精神に痛みが走る。だから「信じよ」と強く語る人を信じ痛みも転嫁する。神の代わりに概念を創造し、知識人は嘘を合理化し歴史を美化する。
私も痛みに恐怖して言えないことだらけ。人類はこの思考する痛みに耐えられない。数千年の思索の歴史が自明している。それでも思索し気の利いた発言を表明しようとする私も絶望から逃げる不誠実者であろう。 (平井康嗣)