いま考えるべきこと、それは、本当に「軍事力」は必要なのかということだ
2007年11月16日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
陸上自衛隊が使用している国産の90式戦車は、1両8億円余りするそうだ。一方、米陸軍の主力戦車M1A2は、はるかに性能が優れているのに7億8千万円。9〇式と互角の性能を持つドイツのレオパルト2A5は、1両5億円程度という。いずれも「反戦軍事学」(林信吾著、朝日新書)からの受け売りだ。
企業では考えられない。もし幹部がこれほどムダな「買い物」をしていれば、特別背任に問われることすらあろう。一般にはありえないことが、なぜ許されるのか。
「軍需」にはタブーがまとわりつく。「国の最高機密に関わることだから、関係者以外は立ち入り禁止」。そして一部の関係者だけが軍事サークルをつくり、利益を共有する。天下り、接待、随意契約……守屋武昌前防衛事務次官にからむ事件は、そうした”治外法権”下の防衛利権構造をわかりやすく浮き彫りにした。
守屋氏の証人喚問での受け答えや、歴代防衛庁長官の「言い訳」を聞いていると、かねてから抱いていた疑問が再び頭に浮かんでくる。「この人たちは心の底から国民の安全を考えているのだろうか」。
彼らの脳の中には「カネ」と「地位」ばかりが蠢いている。そう思わざるをえないほど、自己顕示と自己保身を感じてしまうのだ。
だが、いまもっとも考えなくてはならないのは、そもそも日本に軍事産業は必要なのかということである。以前も本コラムで触れたが、使用可能性は限りなくゼロに近い戦車に何億もの血税を注ぎ込む一方で、「おにぎりを食べたい」と書き残し餓死する人がいる。それが日本の現状なのだ。
国民の生命を守るために必要なのは本当に「軍事」なのか。「国家間の戦争は必ず起きる」という、20世紀には固く信じられてきた“常識”はすでに幻想と化しているのではないか。いまこそ、このことを論議すべき時なのである。
しかし、大連立騒動で「守屋事件」の影は薄れ、自衛隊の恒久法まで浮上した。もともと、小沢一郎氏は、国連のお墨付きさえあれば自衛隊の海外展開は合憲と主張してきた。何となく、民主党全体がその方向に流れそうな雰囲気もある。時代への逆行もはなはだしい。まったく、とんでもない「小沢効果」だ。(北村肇)