編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

原発は制御できず、人類を危険にさらす――この真実を関係者は自ら明らかにせよ

 不器用なのか、火をおこすのが苦手だった。風呂を沸かすのは大体、子どものしごと。新聞紙に火をつけ薪を載せ、団扇であおぐ。これが、なかなかうまくいかない。しびれをきらせた祖母と交代すると、まか不思議、たちまち赤い炎が立ち上がる。ガスバーナーが出現するまで、私にとり、風呂焚きは大仕事だった。

 学生時代、毎晩、4畳半のアパートの洗面所で洗濯をした。あの時間を足したらどのくらいになるだろう。風呂焚きといい洗濯といい、今さらながら、機械化が生んだ「便利」と「時間」の底知れなさを知る。そこで考える。結局、浮いた時間は何に使ったのか。一つ言えるのは、「便利の裏にある危険性について考えた時間はわずか」ということだ。

 本誌今週号は、久しぶりに頁を割いて原発の特集をした。人類が積み上げてきた「便利」は、電気がなければあっという間に消え失せてしまう。「だから原発は必要なんです」と、電力会社も国も当然のごとくに言い放つ。その裏には「だから多少の危険は目をつむるしかないんですよ」という言葉が隠されている。

 電力会社幹部の少なくない人が、できれば原発をつくりたくないと思っているのは、過去の取材体験上、間違いない。ただ、それは費用対効果を考えてのことだ。スリーマイル島やチェルノブイリのような大事故が起きれば、電力会社の利益は吹っ飛ぶ。企業の存続すら危うくなるだろう。

 それだけではない。そもそも、55基の原発を廃炉にするとき、どのくらいの金額がかかるのかわからない。廃棄物処理にしても、いまは「とりあえず」の方法をとっているにすぎず、抜本的な解決への道筋はない。経営者の立場からすれば、原発は極めて不透明でリスクの大きい事業なのだ。

 だが、ことは企業の論理だけでは終わらない。真の問題は、原発が人類そのものを脅かす存在ということにある。

 原発が人類にとって凶器になりうることは、多くの人が知っている。といって、節電のためクーラーを使わない人はあまりいない。「考えても仕方のないことは考えない」というのは人間の知恵でもある。しかし当事者はそれではすまない。原発が次世代にどれだけのツケを残すのか、説明する責務がある。まずは、「原子力は、われわれの制御できることではない」という真実を、自ら明らかにすべきだ。 (北村肇)