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「死」を甘受できなかった、無数の魂の声に耳を傾ける、2007「8.15」

 自分が愛おしい、人が愛おしい、生あるものすべてが愛おしい。そんな思いを褥にして死に臨みたいと、常々、夢想している。臨死体験について書かれた本を読むと、多くの場合、人は安らかな感覚であの世へと向かうようだ。苦痛も怒りも苦悩も、暖かな光の中に溶け込むように消え、「いい人生だった」と微笑む。


 
 これが本当なら、「死」は「デザート」なのかもしれない。でも、私はまだ生きている。苦痛からも怒りからも苦悩からも、逃げられない。暴力的な裸の資本主義、それがもたらす格差社会、列島の基地化、戦争をできる国への変貌、これらから目をそらすこともできない。「8・15」に心穏やかでいるのは難行である。

 本誌は毎年、この時期に特集号をつくる。今年は特にテーマを絞ることなく、「2007 『8・15』」をタイトルとした。後で振り返ったとき、「2007年」は大きな意味を持つ年になると考えたからだ。

 同じような年に1999年があった。国旗・国歌法が制定され、有事法制が成立し、「戦争のできる国」に大胆な舵が切られた。2007年はどうか。国民投票法制定が強行され、前年末に成立した新教育基本法を補完する教育三法が成立、集団的自衛権を合憲とする動きも急だ。

 それとともに、新自由主義が何の衒いもなく、あからさまに牙をむく。セーフティネットのない中、ネットカフェ難民や、生活保護からも見放された餓死者が生まれる。日本型社会主義とまで言われた「公平分配主義」が、実質どころか形式的にも崩壊した2007年でもある。

 ここまで「生命」が軽くなった時代を体験したことがない。参院選で安倍政権にノーが突きつけられたのも、「生命軽視」発想が露骨に表面化したからである。蝶よ花よで育てられたお坊ちゃん政治家には、従軍「慰安婦」も、ペットボトルさえ買えず公園の水道水で命をしのぎ、最後は骨と皮で亡くなった人間の苦痛も、理解しようがないのだろう。

 そもそも、「生きる」とは残酷なことである。他者である動物の「死」を栄養にしなくては、人である自らの「生」はない。ならばせめて、人は人を殺さずに生きていけないものか。南京、ヒロシマ、ナガサキ、ベトナム、パレスティナ、イラク、そして2007年の日本……。「死」を甘受できなかった、無数の魂の声に耳を傾ける、暑い夏。 (北村肇)