編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

『夕凪の街 桜の国』を観て思う戦争責任

 批判的な声をいくつか聞いた上での試写会だった。『夕凪の街 桜の国』は「広島のある 日本のある この世界を愛する すべての人へ」という字幕から始まった。こうの史代さんの原作は、手塚治虫文化賞新生賞を受賞。監督は『半落ち』の佐々部清さん。俳優も粒ぞろい。期待にたがわぬ「いい映画」だった。

 多くの人に観てほしいと素直に感じつつ、「批判的な声」を反芻してみる。「加害者の視点がない。ヒロシマの悲劇は、『大日本帝国』の暴挙が結果的にもたらしたものであり、日本人は、アジア侵略とともに、その責任を痛感しなくてはならない」。

 被爆して若い命を落とす女性が、ふりしぼるような声を発する場面がある。「原爆は落ちたのではなく、落とされた」。

 まさに原爆は勝手に落ちたわけではない。日本に、それも広島と長崎に「落とそう」という意志のもと、よしんば大義が「戦争を終わらせる目的であった」としても、「一瞬のうちに多数の人命を奪い、街を壊滅させる作戦」だったはずだ。戦後世界の主導権争いがからんでいたのも疑いようがない。
 
 彼女はこうも言う。「わかっているのは『死ねばいい』と誰かに思われたということ」。

 広島、長崎の被爆者にとって、米国の戦争指導者は「加害者」である。そのことに疑義をはさみこむ余地はない。しかしまた、日本がポッダム宣言を早々に受け入れていれば、被爆を避けられていたのも冷厳な史実である。暴言防衛相は、そんなことも知らなかったのか、あるいは無視をしていたのか、いずれにしても大臣失格だ。
 
 先述したように、日本が侵略戦争という愚を犯さなければ、ヒロシマ、ナガサキ、そしてアジアの国々を巻き込んだ悲劇は起きえなかった。歴史を客観的にみる限り、日本が「加害者」の立場に置かれるのは避けようがないのである。

 むろん、『夕凪の街 桜の国』の原作者、監督が浅薄な見方をしているわけではない。作品の奥に目をこらせば、「あらゆる戦争はあらゆる市民を不幸にする」というメッセージがきちんと佇んでいる。それでも、「ヒロシマ」が「日本人の悲劇」であるという筋立てが、たとえば「慰安婦」の方にはどう映るのか、本誌で「桂林の『慰安婦』ルポ」の連載を始めたいま、改めて考えてしまうのである。(北村肇)