「食の安全」は一朝一夕には取り戻せない。だから確固たる意志が必要になる。
2004年3月5日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
スプーン一杯の土には数十億の生命が存在するという。それだけで一つの宇宙だ。では大地に毒物をまき続けたらどうなるのか。農薬問題は、そういうことを問いかけていた。
十数年前、新聞記者として農薬問題を追っていた。当時の農林省や厚生省は、信じられないほどに腰が重く、取材中に何度かどなりあいになったこともある。何しろ猛毒の除草剤・パラコートでさえ事実上、野放し状態だというのに、まるで緊張感がなかったのだ。当然、土地を“殺す”ことの重大さに気づいていた役人はほとんどいなかった。
だが、農薬の毒性、とりわけ遺伝子への影響が広く伝わるにつれ、さすがに国も対応に乗り出さざるをえなかった。まだまだ不十分で、農薬取締法などには問題点もたくさんあるが、とりあえずは改善に向け動き始めた。一方で、全般に「食」に対する消費者の関心が高まったこともあり、「無農薬」は一種のブランドになった感さえある。最近では、無農薬野菜や低農薬野菜専門の売場も増えている。まさに様変わりだ。
と思っていたら、今度はBSE(牛海綿状脳症)、鳥インフルエンザ騒動などをきっかけに、抗生物質投与による耐性菌問題がクローズアップされている。今週号の特集「食の不安 10の疑問と対処法」でも触れたが、この問題は突然降ってわいたのではない。多くの研究者やNPOが指摘していたにもかかわらず、なかなか広範には伝わらなかったのだ。
「危険な食べ物」は一朝一夕に生まれたわけではない。行政の怠慢は勿論だが、効率を追い求める社会そのものが、なし崩し的に作り上げてしまった面もある。「早く、大量に、安価に」の掛け声が、農業や畜産業、漁業を徐々に「工業」へと変貌させてしまった。
とすれば、「安全な食べ物」を取り戻すにも時間はかかる。死んだ土地を生き返らせるためには、最低数年は必要だ。そもそも食材の大量生産を見直すには、飽食に慣らされた身を変えなくてはならない。それには一体、何年かかるのだろうか。だが今度は「なし崩し的に」とはいかない。確固たる意志が、国にも私たちにも求められる。(北村 肇)