「現実主義」の名のもとに、「解釈改憲」を推し進め、憲法九条をいいようにねじ曲げてきた国会議員は、明らかに憲法九九条違反だ。
2004年3月19日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
「理想」を追い求めるのは、「非現実的」なのだろうか。
戦争より平和のほうがいい。すべての国が武器を捨て、地球が一つになったほうがいい。できれば、犯罪も事故も環境破壊もない社会がいい。これが「理想」であることに異を唱える人は、そう多くないだろう。だが、「だったらみんなで目指そう」と口に出した途端、「非現実的だ」と一蹴されるか冷笑される。
憲法九条――幾度かの大戦を経て、人類が生んだ一つの「理想」と思う。少なくとも日本は、この「理想」に「現実」を近づけようと決意したはずだ。朝鮮戦争などを契機に、結果として自衛隊が生まれてしまった。それでも非核三原則や武器禁輸政策が固持されてきたのは、ひとえに九条の賜といってもいいだろう。だが自民党はもちろん、今や野党の中にも、「理想」を「現実」に合わせようと声高に主張する議員がいる。
彼らにとっての「現実」とは何か。改憲の根拠の一つとして、「米国の押しつけ憲法」が指摘される。「自主憲法ではない」ことがまず問題だという。ところが一方で、その米国との集団的自衛権確保のために改憲に走る。何をか言わんだ。この例が示すごとく、「現実」とは、実は「ご都合主義」以外の何物でもない。
憲法九九条は「憲法尊重擁護の義務」として、次のように定めている。「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」。 本来、憲法は公務員が守るもので、国民・市民は憲法によって守られるのである。
「解釈改憲」の名のもとに、いいようにねじ曲げられてきた九条。仮にも憲法の条文を尊重しなかった国会議員は、明らかに憲法違反を犯している。これこそが正真正銘、「現実」ではないか。(北村肇)