イラク戦争反対運動への不当弾圧には満腔の怒りを禁じ得ない。今や日本は、「暴君のいない恐怖政治」に陥っている。
2004年4月2日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
突然、雨に降られ、たまたま近くのマンション玄関で雨宿りしていたら、住居侵入で逮捕された。アルバイトで、レストランのチラシを配っていたら、警察に連行された。普通、こんなことはありえない。だが、特殊なケースでは起こりうる。それは、捜査当局に「目をつけられた」場合だ。
以前から、ヤクザや過激派は微罪で逮捕されたうえ、長期間の勾留を受けてきた。オウム真理教の信者もそうだった。しかし、このような捜査を許しておくわけにはいかない。職業や主義・主張によって、その人間を立件するかどうか決めるのは、明らかに法の下の平等を無視した暴挙だ。しかも、ほとんどの場合、「別件逮捕」の意味合いが強く、これは明確に違法である。
だが、捜査当局への批判の声はあまり聞かれない。一般的な市民感覚が、「ヤクザやオウムでは、やむをえない」と許してきたのも事実なのだ。
東京都立川市で、「イラク派兵反対」のビラを配っていた人たちが逮捕、勾留された。常識的には考えられないことだ。まさに「当局に目をつけられていた」のであり、政治的意図は明白だ。満腔の怒りに震える。
ここまで恣意的な捜査がまかり通るようでは、もはや民主国家とは言えない。戦前も、「反国家的」とみなされた個人や組織が次々と不当弾圧を受けた。その結果、言論の自由は失われ、日本は悲惨な歴史に突入していく。同様の危機感を覚える人も多い。
だがひょっとすると、事態はさらに深刻かもしれない。大日本帝国には「天皇制」という柱があり、弾圧はもっぱら「不敬罪」に基づいていた。むろん軍部の独走という面を無視はできないが、「天皇制」が崩壊すれば、民主国家に生まれ変わる素地はあったと言えよう。
しかし今の日本には、当時のような絶対権力を顕現するものがない。いわば、「暴君のいない恐怖政治」に陥っている。これは厄介である。民主勢力は、目に見えない敵と戦わなければならないからだ。そして最大の悲劇は、考えたくもないことだが、「暴君」の素顔が大衆であったときだ。(北村肇)