編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

「週刊文春」の差し止め問題で思うのは、「報道の行き過ぎによる危険よりも、沈黙による危険のほうがはるかに大きい」ということ。イラク報道ではどうだ。

「週刊文春」の差し止め問題が起きたとき、たまたまノートに書き留めておいた言葉を思い出した。

「言論、報道は自由であればあるほどいい。行き過ぎや弊害は対処の仕方があります。五・一五事件の教訓から考えても、行き過ぎによる危険よりも、沈黙による危険のほうがはるかに大きいのであります」

 五・一五事件で軍の若手将校らに殺害された犬養毅首相(当時)の孫、康彦氏の講演をまとめた冊子からの引用だ。事件後、マスコミは内務省の指示により、まさに沈黙を強いられ、結果として犯人は愛国者扱いされる。そして、日本は戦争に突き進んでいくのである。 
 
 五・一五事件が起きたのは、軍部が中国大陸への侵攻を本格化していた1932年。クーデターをもくろんだとされる海軍将校ら9人が首相公邸に乱入、軍事侵攻に消極的だった首相を射殺。「話せばわかる」という犬養氏の言葉は歴史に残った。

 翌16日付け朝刊では「犬養首相逝去」という見出しは踊ったものの、詳しい事実関係が報じられることはなかった。そして信じられないことに、時の首相がテロに倒れるという大事件にもかかわらず、同日の夕刊以降、新聞各紙から関連記事は姿を消してしまう。内務省警保局から報道禁止の通達が出されたからだ。

 解禁が解けたのは翌33年5月。その日、軍部から「五・一五事件の全容」が公表され、新聞は事実関係のみを伝えた。メディアの論評がなければ、陸軍大臣らの「この青年たちの心情は、国を憂える誠実なもの」という談話だけが一人歩きする。減刑嘆願の動きが広がり、最終的に被告に下された判決は、最高でも禁固15年という軽いものだった。軍部の狙い通りになったのである。

 メディアが沈黙する中で、敢然として軍に立ち向かったジャーナリストがいた。福岡日々新聞(現西日本新聞)の主筆、菊竹六鼓。唯一、軍部批判の社説を書き続けたのである。事件翌日の夕刊では「陸海軍の不貞なる一団」との表現を使い、暴走する軍部に警鐘を鳴らした。

 むろん、「週刊文春」と六鼓を同一に論じようというのではない。そもそも、問題になった記事は「反権力」の姿勢に立ったものではないし、公共性も公益性もないと思う。だが昨今の流れを見ていると、政治的検閲がいつメディアを襲ってもおかしくない時代になったと感じざるをえない。

 一方、イラク報道ではすでに、自己規制や、露骨に政府の意向を後押しするメディアが目立つ。誘拐された人たちの「自己責任」報道などは典型だ。自衛隊のイラク派兵が失政であることを、ものの見事に隠し通した。また犯人グループに脅されている写真の件もそうだった。ほとんどの新聞、テレビが「家族の心情を慮って」として報道しなかった。家族は「報じて欲しい」と訴えていたのだから、そんなことは成り立たない。要は、ことをあまり深刻に見せたくない政府の思惑に乗っただけだ。

 大本営発表がまかり通る時代を迎え、自分は六鼓になれるのか、日々問いかけている。 (北村肇)