国家に管理される痛みに比べれば、「自由」のもたらす苦しみのほうが、はるかに人間的だ。
2004年5月21日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
学生帽、学生服が大嫌いだった。それでも中学生のときは、先生に叱られるのが嫌で、仕方なく身につけた。高校に入った一九六七年はいわゆる「学園闘争」真っ最中。たまたま生徒会役員になると、上級生が「こんな軍国主義の異物は拒否しよう」と、学帽・学生服廃止運動を提起した。もちろん大賛成!。
結局、生徒の要求は通り、学帽は二年後、翌年には学生服も廃止された。自由になった途端に卒業ということになったが、満足感は残った。ところが、大学生になってからしばらくして出身校を訪ねると、みんな学生服を着ているではないか。
「いったい、どうなったんだ」と後輩に聞くと、「服装は自由ですが、学生服のほうが面倒くさくないので」という答えがしらっと返ってきた。「みんなと同じほうがいいし」とも。
人間は所詮、社会では、「枠」がないと生きられないのだろうか。国、会社、家族、性別、年齢…すべては目に見えない線引きで成り立っている。そして「枠」があれば、そこには必ず優劣が生じる。国家権力はそれを巧みに利用して市民を管理、「お上の言うことに逆らわない」タイプの人間を量産するのだ。だが大衆は「長いものに巻かれたほうが生きやすい」という選択をし、そこから“はみ出た”人間を「非国民」としていじめの対象にする。
本誌今週号で特集したように、すでにこの国は「監視国家」「管理国家」として暴走し、一人ひとりの人権をないがしろにしている。しかし大半の市民は、そのことに目をつぶっているかのごとくの風情で、日々暮らしている。一方、“自立した”人間は、そんな社会に窒息しようとしている。
本来、「生命」は自由そのものだ。どこにもくびきはない。だからこそ、みんな思うように自分がコントロールできず、苦しむ。そしてこの苦しみは、権力に管理される痛みに比べれば、はるかに人間的なはずである。(北村肇)