編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

「歴史」に翻弄される側(大衆)が権力を下支えすることで、「戦争の歴史」は生まれた。いままた、その轍を踏もうとしているのか。

「歴史」を書きとどめるのは権力を持った人々。「歴史」に翻弄されるのは市民。当たり前とあきらめてしまえば、それまでなのかもしれないが、こんなニュースを聞くと、いたたまれなくなる。

 訪朝から戻った小泉首相を非難した拉致家族に対し、バッシングのメールや手紙などが相次いだという。特にテレビで、そのシーンが放映されてからがひどかったようだ。

「家族会」に関しては、いささか政治利用された面もあり、危うさを感じなかったわけではない。何がなんでも日本側の要求を通させるということが、外交上困難なことも現実だ。だが、それでもなお、国家に肉親を拉致された被害者が、首相に対し様々な思いをぶつけたくなる心情は理解できる。「礼儀しらず」との批判があったが、被害の重みを考えたら、そんな非情なことがいえるはずもない。
 
 多くの人が語ったように、イラクで誘拐された五人への攻撃と、今回のバッシングは構図が似ている。被害者を「生意気」との理由で加害者にしてしまうのは、「自分より弱い人間なら助けてあげるが、調子に乗ったら許さない」という心理が働いてのことだろう。潜在的に「社会の中で自分は被害者」と思っている市民が多いことの証左かもしれない。

 もう一つ、こちらのほうが深刻だが、「お上にたてつく」ことが問題という風潮だ。権力は必ず腐敗する。だから、監視し批判するメディアの役割が大きい。だが今や、本誌今週号で取り上げた「アルカイダ幹部逮捕」の報道が如実に示すように、“垂れ流し”としか言いようのないニュースがあふれる。常時、そうした報道に接した市民が「体制派」になるのは必然の流れだろう。

 振り返れば、翻弄される側(大衆)が権力を下支えすることで、「戦争の歴史」が生まれたのではなかったか。すうっと寒気が走る。(北村肇)