編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

こんな時代、もっとも困った存在は、熱湯でも生きられてしまう、無意識の「ゆでカエル」だ。

「ゆでカエル」という言葉を聞く機会が増えた。説明するまでもなく、じわじわと迫ってくる危機には意外に気付かず、「しまった」と思ったときには後の祭り、のたとえだ。

 人間は、カエルよりさらに鈍感かもしれない。かりに10年前、「自衛隊のイラク派兵」とか「多国籍軍に参加」とか政府が言い出せば、大騒ぎになっていただろう。それが、安保再定義、PKO参加など、少しずつ水温が上がり、多くの市民が熱さに慣らされてしまった結果が「今」だ。

 数年前、新聞社・通信社の労働組合で作る「新聞労連」の委員長をしていた際、日経連が打ち出した「新時代の日本的経営」に対する反対運動に力を注いだ。「雇用の流動化」という名目の元、正規労働者を極力、減らし、その分をパートやアルバイトで補おうという政策は、さまざまな“毒”をはらんでいた。高賃金の高年齢社員のリストラ、労働組合つぶし…。

 だが正直いって、当時は組合員に、それほどの危機感がなかった。財界の「戦略」がよく見えていなかったのだ。新聞労連の組合員ですらそうだったのだから、まして一般市民にとって、「新時代の日本的経営」は遠い世界の言葉だった。大手メディアが批判的に報道することも、ほとんどなかったし。

 本誌今週号で特集したように、こうした財界の戦略は国家戦略にリンクし、気がつくと、日本は「戦時」の色合いを濃くしていた。ゆでカエルはまたまた、「いつの間に?」と首をひねることになる。

「しかし」とむりやり考えてみた。「人間には環境適応力もあるよな。だから、いつしか高温でも普通に生き延びられる体質になったりして」。ここで「うんうん」と納得してしまったら、ますます知恵のないカエルになってしまう。

 もっとも困った存在は、「しまった」と気づかないまま、体質が順応してしまう、まさに無意識のゆでカエルなのである。「国を守るためには、徴兵制が欠かせない」と言われても、ゆだった頭のまま「いいんじゃない」と言ってしまうような。    (北村肇)