「教育」が必要なのは、若者ではなく、「管理と強制」の好きな大人たち
2007年5月18日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
駅の階段を、手すりを利用しながら一歩ずつ降りていく女性のお年寄りがいた。その脇を駆け抜けた、ジーンズを腰まで下げ耳にピアスをしている若者が、振り返ったと思ったら突然、女性のところに駆け上がった。「手を貸しましょうか」「大丈夫です」。
階下で、女性の知り合いらしき人がほほえんでいる。おそらくは、リハビリをかねて自力で降りていたのだろう。それを悟ったのか、少年は階下に行き、そのまま、女性が降り終わるまで見届けた。
「ありがとう」の言葉に、少し照れた様子で改札を駆け抜けていった少年を見ながら、無性に恥じ入った。彼が駆け下りる姿を目にして、「他人のことなど気にしない傍若無人の若者」と、すっかり誤解したからだ。見てくれや年齢への偏見にほかならない。すぐに手を貸そうとしなかった私こそ、自分勝手な大人なのに。
「戦後教育が公共心を失わせた」との言説がある。なるほど目にあまる若者がいるのも事実だ。でも、「自分のことしか考えない」点で言えば、「教育再生」を叫ぶ国会議員のほうがはるかに上をいっている。
新自由主義的教育とは、結局のところ「他人を蹴落としても勝ち抜く人間になれ」と教え込むことにほかならない。つまるところ「自分の利益のためなら何をしてもいい」ということだ。
一方で、「国家のためには『私』を犠牲にしろ」という、復古主義的教育が推し進められる。新自由主義的教育とは矛盾するようだが、そうでもない。「国家」は、「組織」や「権力」に言い換えられる。つまり、「強者には従え」「奴隷になるのが嫌なら、自分で権力者になれ」とむち打つわけだ。
教育基本法が改悪され、教育三法の審議が進む。全国一斉学力テストも実施された。本誌今週号で特集したように、これらはいくつもの問題をはらむ。憲法改悪もそうだが、「自由は強者だけが享受する」という発想が潜んでいる。
「強制と管理」の好きな人間ほど、人への優しさが欠ける。体験上、知り得た紛れのない真実だ。大人にはわからない優しさをもつ子どもたちにおかしな教育を押しつける輩こそ、教育する必要がある。(北村肇)