「自民」も「民主」も勝てなかった知事選
2007年4月6日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
乗り慣れた電車から見る、見慣れた川面の風景。鋭角的な高層ビルが、ゆらゆらと揺れるさまが好きだ。人の作り物をお茶目な自然がいじくっている。こちらまでくすぐられている気分に、なぜか心なごむ。このゆらぎは季節によって微妙に変化する。彼岸を過ぎ、河岸の桜がふくらみ出すと、ビルは一層、溶け出す。
その桜もあっと言う間に落ちてしまった8日、新しい都知事が決まった。
今年は12年に一度、参議院選挙と統一地方選挙が重なる「亥年選挙年」。特に都知事選が焦点になっていた。ここでの帰趨が、参議院選挙やその後の政局に大きく影響するのは間違いない。場合によっては、政界再編成につながっていく可能性すらあるからだ。結果は「微妙」としか判定のしようがない。
昨今の首都は、ごつごつした威圧的なビルが増え続ける。自然のもつおおらかさに挑戦するかのようだ。バブル時代をほうふつさせる。さまざまな押しつけに襲われる教育現場からは、どんよりとした空気が絶え間なく漏れてくる。索漠とした都会で人生の半分以上を仕事に過ごしてきた私でさえ、息苦しさに戸惑う。
一昔前、一瞬だが、東京が甦るような錯覚に陥ったことがある。神田川からヘドロが減った。桜並木を軒並みつぶすような護岸工事がなくなった。ある学習会で同席した建設省(当時)の官僚が、「これからは自然を生かす都市計画が主流になります」と胸を張っていたのが印象的だった。
「失われた10年」に入るか入らないころだったが、少なくとも東京にはこれほどの鬱屈感はなかった。むしろ、「今は最悪だが、明日は何とかなるだろう」という、根拠のない楽観論すら漂っていた。
表向きの景気回復は実現した。だが実態のないことは、街を歩く若者の後ろ姿が証明している。大地を蹴る躍動感がない。といって、生命をつかみきれないもどかしさから悩み悩み歩を進める、未完の哲学者の風情もない。
投票率を見る限り、彼ら・彼女らが自らの意志で都知事を選んだとも見えない。広い意味での「無党派層」も川面のごとく揺れているまま。「自民」も「民主」も勝てなかった知事選、そんなマスコミの総括も的外れではなさそうだ。(北村肇)