編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

郵政公社の効率化は、人の行なう作業まで機械的にした。そもそも「○」か「×」かというデジタル発想はいただけない。

 確実に届けたい手紙や書類は宅配便を使うことが多くなった。郵便局に任せるのは不安だからだ。遅配、欠配が多いだけではなく、サービスも悪い。枝番号がほんの少し違うだけで、「宛先人不明」として戻ってくる。

 郵政公社になり、お決まりの合理化、効率化が進んだ。多くのことがマニュアル通りの流れ作業に乗っていく。一見、いいように見える。だが実際は過重労働を生み、サービス低下をもたらした。

 効率化は、人の行なう作業も機械的にしようということだ。言い換えればデジタル化である。そこには「○」「×」しかない。たとえば、宛先に書かれた住所に当該の人が住んでいなければ、「×」としてはねてしまう。

 従来はアナログ作業が存在していた。単純に「×」とせず、担当者がいろいろ苦労して、探し当てることがあったのだ。名前さえ正しければ届くこともあった。公園で寝泊まりしているホームレスのおじさんに手紙を出したら、郵便局が渡してくれた、という逸話を読んだこともある。

 これは大変な作業だ。だから、それなりの人数も必要だった。コストがかかる代わりに、私たちは一定のサービスを享受していたのである。何を最優先するのかについては、さまざまな議論があるだろう。だが少なくとも、郵政公社は本当に市民に役立つ存在になっているのか、改めて検証すべきだ。

 なのに小泉内閣は、そんなことはほったらかしにして、郵政民営化に突き進もうとしている。彼の真意がどこにあるにせよ、このまま民営化が実現すれば、その「会社」で、ますます合理化、効率化が求められるのは間違いないだろう。

 時代遅れと言われながら、腕時計はアナログ式を使い続けている。ゼロと一の間の、計り知れない宇宙に惹かれるからだ。人間も社会も二分法に収まるはずがない。(北村肇)