法による国民投票法のCM規制は認められない。極めて当然のことだ。
2007年3月2日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
譲れないことがある。譲るべきでないことがある。国民投票法に関し、CMの規制をどうするか、論議になっている。法規制だけは認められない。断固としてこの点は譲れない。理由は単純。報道は、あらゆる「権力」から自由でなくてはならない。でなければ民主主義は機能しない。かりに、現時点のマスコミが信用ならなくてもだ。
共謀罪の新設法案が国会に上程されている。それ以前に、共謀共同正犯の拡大解釈と思える逮捕があった。対象は組織暴力団のトップ。弁護士らから「おかしい」との声があがったが、マスコミは問題点を追及しなかった。「暴力団では仕方ない」という雰囲気があったのは否めない。この「仕方ない」が共謀罪につながったのだ。
西村真悟衆院議員が弁護士法違反と組織的犯罪処罰法違反の両罪に問われた裁判で、大阪地裁は、組織的犯罪処罰法違反については無罪を言い渡した。真っ当な判断である。いくら悪質であっても、共謀罪を先取りするような、組織的犯罪処罰法の拡大解釈は認めるべきではない。
「仕方ない」は曲者だ。「オウム真理教事件」の場合も、「オウムでは仕方ない」と、本来なら任意取り調べが当然の微罪による逮捕が相次いだ。しかし、捜査当局への批判はほとんどなかった。悪しき前例は必ず悪用される。メディアは、冷静な視点からの批判をすべきだったのだ。
「テレビの現状を考えたら法規制も『仕方ない』」。そう言われると、肯きたくもなる。だが、じっとこらえなくてはならない。一旦、法規制の前例ができれば、何かとメディアを規制する法律ができかねないからだ。ただ、当のマスコミがこの危機感をどこまで持っているのか疑わしい。
そもそも、新聞やテレビは「憲法」をどう考えているのか。この欄では何度か触れたが、与党案は「主権在民」から「主権在国」に変えようというものだ。国家のありようを根底から覆す。その改憲案をはかるための国民投票法である。これほどの重要事なのに、取り組みが甘すぎる。
新聞協会も民放連も、さすがに法規制に関しては反対を表明している。ではいかなる自主規制をするのかについては、具体的な案が出ていない。何をもたもたしているのか。連日、議論するのが当然だろう。マスコミの覚醒なくして、平和は守れない。(北村肇)