編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

目覚めよマスコミ。2005年、本誌はあえて、「大メディアの正体」を暴く連載を開始する

 スマトラ沖大地震に関する情報で、最も深い部分を刺激されたのが、「インドネシアの内戦被害者が二重の被害に遭っている」というメールだった。反政府の立場だった人が支援を受けられない――。はっきりした証拠はない。だが可能性は否定できない。鋭意、取材を続けるつもりだ。
 
 人類が生んだ唾棄すべき発明の一つに「境界線」がある。国籍、民族、宗教、性別、政治的立場、さらには富める者と貧しい者。あらゆることに境界線を引き、仲間はその中で結束し、外部の人々を“敵”として排除する。

 これは何も「権力」側に限ったことではない。左翼運動、平和運動、労働運動の場面でも同様のことは数多く見られる。目的は変わらないのに、戦略・戦術の違いで敵味方に分かれる。かつて大学闘争華やかなりしころは、互いに「日和見」という境界線を設け、内ゲバに走り、結果として権力を利するという苦い歴史もあった。

 いま世界は、さらに大規模で謀略的な境界線に支配されつつある。「米国流自由と正義」対「テロリスト」はその最たるものだろう。「非イスラーム」対「イスラーム」という構図も作り出されている。

 このような悪しき「二分法」に異を唱え、「命に差はない」を視座に据えるのがジャーナリズムの基本だった。それがどうだろう。昨今のマスコミでは、初めから「正邪」「黒白」を決めつけた報道があまりに多すぎる。たとえばイラク報道。侵略者たる米軍に対するレジスタンスを、平然と「テロ」呼ばわりして恥じない。

 そもそも米国は「勝ち組クラブ」の境界線を引き、その中に入ってこいと、いわゆる「先進国」に秋波を送っている。そこに加わることは「負け組」を差別し排除することにほかならない。政府・与党は明らかにこの誘惑に負けている。だから、いまこそマスコミは、「日本を間違った方向に引っ張るな」と権力批判を展開しなくてはならないのだ。

 目覚めよ大メディア。さもないと真の人権社会は訪れない。本誌はあえて、今週号から「大メディアの正体」を暴く連載を開始する。それにしても、「社会の木鐸」に対し警鐘を鳴らすとは、皮肉な限りだ。(北村肇)