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「お手盛り」都知事が末期症状になるのは、当然至極

「お手盛り」の語源は、「自分で好きなだけ食器に飯を盛れる」ことという。考えるべきは、「お手盛りのできる立場の人間は、『飯』の価値がわからない」という矛盾だ。生きるための米一粒が重要な人間にとって、「お手盛り」は遠い世界の話。逆に、生活に困らない人間ほど、何かと傍若無人にふるまう。

 石原慎太郎都知事は、どうみても生活困窮者ではない。自腹でガラパゴス諸島へ観光に行くこともできるだろう。クルーザーだって借りられるはずだ。なのに、多額の税金を、まさしく湯水のごとくに注ぎ込んだ。いくら「知事の仕事」と言い張っても、日々の生活が大変な多くの都民が納得するものではない。

 どうやら、石原知事の「世界」は大変、狭く、しかも偏っているようだ。「食べるものにもこと欠く世界」が、ここ日本に存在する事実など、考えたことも思いついたこともないのだろう。一方で、イグアナの生態には大いなる興味があるらしい。

 親族に都の仕事が委嘱されていた問題を批判されると、「能力があるのだから当然」という趣旨の反論をしていた。当人の実力がわからないので、断定的なことは言えない。しかし本当に「余人をもって代え難かったのか」、疑問をぬぐえない。むしろ、このエピソードも「世界の狭さ」を示しているのではないか。視野狭窄に陥ると、何が何でも親族が一番に思えてしまうものだ。

「三国人発言」や「ババア発言」に見られるように、もともと「立派な日本人男性」以外は人ではないかのような発想をもっている御仁、ワーキングプアーやホームレスの現状視察を勧めても、木によりて魚を求めるがごとしか。

 知事や国会議員は、そんなことでは困るのだ。国や自治体を引っ張る者は、どんなにがんばっても「飯」を手にいれられない人に思いを寄せなくてはならない。いかにして、彼ら、彼女らの生命を保証するかが、問われているはずだ。ひょっとして、「それは自己責任。私は努力してがんばったから、『お手盛り』もできるようになった」とでも言うのだろうか。
 
 知事選まであとわずか。共産党は候補者を立てたが、野党第1党の民主党は立ち後れている。自分たちも「お手盛り政党」というのなら仕方ない。だが、「格差社会是正」を参院選でも全面的に打ち出すというなら、さっさと候補者を決めるべきだ。石原知事も倒せずに政権奪取などできようもない。(北村肇)