ベトナム戦争30年。反戦デモで感じた、あの“悔しさ”に終結はない。
2005年6月10日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
雨が、大地にとり、生きとし生けるものにとり、恵みとなることは理解できる。それでもなお、雨は好きになれない。陰鬱な感じがじっとりと全身をなめ尽くす。こっそり忍び寄ってきた物の怪が、ぬめぬめとした手で「魂」を包み込む。得も言われぬおぞましさに震えたのは、梅雨の病床にいた小学生の悪夢。
今年、終結30年を迎えたベトナム戦争。なぜか雨のイメージがつきまとう。密林を突き破るスコール、泥だらけの戦場。報道写真や関連映画の場面が、輻輳した記憶となって刻み込まれたのかもしれない。あるいは、敗戦が見えても撤退しない米軍に向けられた、「泥沼」という言葉が染みついたのか。
当時を振り返り気が付いた。「雨」と「涙」のつながり。安っぽい演歌のようだが、確かにベトナムの雨は涙を呼び覚ました。
「国家」が、理不尽に非道に「命」を蹂躙する。戦争はそんなものといってしまえば、身もふたもない。圧倒的な国力を誇る米国は、枯れ葉剤の使用という暴挙をも何食わぬ顔で行なった。一方、泥まみれになり、「尊厳」を背負って闘うベトナム人民。無力とみえた彼ら・彼女らがやがて勝利をたぐりよせていくさまは、名状しがたい震えをもたらした。
一方、平穏な東京で日常のように行なわれる反戦デモ。学生にとって、そこへの参加はいわば“義務”だった。米国への憤りはこらえきれないほどだったが、何も知らない、何も語れない、何もできない……雨中のデモは、無力で浅薄な私の涙を覆い隠した。
時代が移り、ベトナムは米国と“和解”、驚異的な経済発展を遂げる。「資本主義対共産主義」という構図は、過去の遺物と化したかのようだ。だが米国は覇権国家として、アフガニスタンでイラクで、再び武力侵略を繰り返した。「民主化」という大義名分も、その本質は、ベトナム戦争時代と何ら変わりはない。米国の本音は常に、「自国の経済的利益確保」にある。
枯れ葉剤の惨禍を改めて今週号で特集した。イラクの劣化ウラン弾がもたらす悲劇も、いずれ世界から指弾されるだろう。30年間、世界は、日本は、メディアは、そして自分は何をしてきたのか、してこなかったのか。降りしきる雨のデモで感じた、悲しみとは違う、あの悔しさ、もどかしさに終結はない。(北村肇)