『週刊金曜日』ルポ大賞受賞者の技量は似非プロを超えている
2006年10月20日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
美術にはとんとうといが、ピカソがなぜ天才かは何となくわかる。感覚器官が通常人とは異なるのだ。目はもちろん「心眼」が、対象をあらゆる角度からとらえることができる。それらが一つの作品に昇華したとき、観る者を驚愕させる。「抽象画」とは、一般人では見ることの出来ない本質を具象化することではないのか。
本誌では、今週号から『週刊金曜日』ルポ大賞受賞作品の掲載を始めた。今年で17回目。毎年、多くの応募作品があり、選考に頭を悩ます。
そもそも、ルポライターとは何か。人によって定義は異なるだろうが、私は次のように考える。
「透徹した目と感性で、物事の本質に迫り、文字に移しかえる表現者」。
「物事の本質に迫る」には、現場に行き、当事者に会わなくてはならない。だから野次馬でなければだめだし、足腰が軽くなくては務まらない。何より「自分」がなくてはならない。そして他者を尊重し、愛す姿勢が求められる。
時に、ルポルタージュは激しく他者を批判する。それはしかし、他者の立場を尊重していることにほかならない。むろん、「自分」の立ち位置がしっかりしているからこそ、批判的言説を展開できるのである。
マスコミの「北朝鮮報道」は、多くが、政府には無批判のうえ、本質に迫っているとも見えない。一線の新聞記者や放送記者はルポライターといっていいだろう。「現場」は北朝鮮だけではない。永田町にも霞ヶ関にも「現場」はある。本質を探る手だてはさまざまに考えられるはずだ。
なのに、なぜ「官製」の情報ばかりが流れてくるのか。むろん全員とは言わないが、大半の記者が自分の立ち位置、自分の思想、自分の言葉をもっていないからではないのか。いまプロの力を発揮せずに、いつ発揮するのか。
もともと、鳥肌が立つようなルポには滅多にお目にかかれない。私自身、満足のいくルポは一度として書けていない。だが今回のルポ大賞受賞者はいずれも、日曜画家や名前ばかりの似非プロの域を超えている。(北村肇)